大林わるのりさんからのコメント
大須賀は小林への指桑罵槐をねちっこく続けているようです。
「男系男子〝尊重〟」という姿勢は、最悪の「愛の反対の無関心」だ
https://yoshinori-kobayashi.com/blog/46348
>一方、小川氏は「尊重」という極めて曖昧な責任放棄を行った上に「(女性天皇は)全く反対ではない。生きているうちにお目にかかりたいという、一人の日本国民としての思いはある」という、自らが男尊女卑と思われたくないための取り繕いは述べている。
>こうした姿勢、まさに愛の反対の無関心でなくて何なのでしょうか?
大須賀の文中にある「自らが男尊女卑と思われたくないための取り繕い」という言葉は、小林の特徴を見事なまでに言い表わしています。
小林が「愛子天皇実現」の大義を掲げて、自分を真のフェミニストで女性の味方であるかのように演じているのは、まさしく「自らが男尊女卑と思われたくないための取り繕い」であると言えます。
しかも、小林は「愛子天皇実現」の目標を本心では事実上諦めつつあるにも関わらず、「わしはまだ愛子天皇実現の目標を諦めていないんだ」というポーズを必死に演じて運動のための運動を続けています。
それどころか、小林が「愛子天皇実現」の目標を果たすための切り札として、自らの歌手ごっこ活動を持ち出しているのは公私混同を極めた愚行であると言えます。
天皇や愛子さまを狂信的に個人崇拝して、「愛子天皇実現」のイデオロギーを盲目的に信じている大須賀からすれば、小林がやっていることは「愛子天皇実現」の正義を放棄した裏切り行為に見えているのでしょう。
要するに大須賀が言いたいことは、こういうことかもしれません。
「小林はカラオケ趣味に溺れて『愛子天皇実現』の大義を事実上放棄したくせに、建前では『愛子天皇実現』の目標を諦めていない尊皇家のふりをしている。しかも小林ときたら、『愛子天皇実現』の大義を利用して自らが男尊女卑と思われたくないための取り繕いに必死になっている。小林がやっていることは、愛子さまや皇室に対する『愛の反対の無関心』に他ならない」
確かに大須賀は、小林がやっている運動の欺瞞に(本音では)気付くことができています。しかし大須賀の場合は、天皇や愛子さまを狂信的に個人崇拝する皇室カルト思想に洗脳されているという問題があります。
皇室典範は「皇室に違反」している
https://yoshinori-kobayashi.com/blog/46402
>これは、冒頭で挙げたような「本当は皇室に愛も関心も無いけど、その権威を空っぽの自分のマウンティングに使えそうだ」と思う層へのマーケティング言説に、ついに自身まで侵されきった成れの果てですね。
大須賀が分析しているように、小林ならば「本当は皇室に愛も関心も無いけど、その権威を空っぽの自分のマウンティングに使えそうだ」と本気で思っていても不思議ではありません。
しかも小林を崇拝するシンパたちも、皇室や愛子さまという権威を「空っぽの自分のマウンティング」のために利用したがるという特徴があります。
だから、大須賀が書いているこの文章は、皇室の権威をマウンティングのために利用して論破ごっこをしているゴー宣道場を批判したものとして読めてしまいます。
確かに、大須賀はゴー宣道場の欠点を実に的確に分析できています。しかし残念なのは小林やゴー宣道場だけではなく、大須賀でさえも皇室の権威をマウンティングのために利用して論破ごっこをする人間であるという特徴があります。
大須賀もそうですが、天皇や愛子さまを個人崇拝する女系カルト思想(直系カルト思想)に洗脳されてしまうと、自分が信奉する狂信的尊皇思想と反する人間を「男系固執の国賊」と決めつけて憎悪するようになってしまいます。
他の小林シンパと同じく大須賀でさえも、皇室の権威を利用した偏ったイデオロギーに基づいて相手を裁くことで、自分自身の独善的な正義感に酔いしれるという悪癖があります。大須賀によるこのようなやり方を、皇室の権威を利用したマウンティングと呼ばずして何と呼べばいいのでしょうか。
天皇や愛子さまを個人崇拝する皇室カルト思想から自由になれない大須賀は、やはり未だに洗脳が解けていない可哀想な人なのだなと言わざるを得ません。
2026年04月01日 02:35
https://washiblogact3.seesaa.net/article/519923919.html
大林わるのりさんからのコメント
皇室に呪いの言葉を吐き続ける竹内久美子
https://yoshinori-kobayashi.com/blog/46586
愛子さまを狂信的に個人崇拝する大須賀が、All Aboutに引用された竹内久美子の著書『皇室論 なぜ天皇は男系でなければならないのか』(方丈社)を全面的に批判しています。
竹内久美子はゴー宣道場が昔から「男系固執」として目の敵にしている文化人の一人であるため、大須賀にとっては分かりやすい「敵」が現われたかのように見えているのでしょう。
しかし、大須賀が竹内を批判するために主張している言説は、ゴー宣道場がこれまでさんざん言ってきた内容の繰り返しに過ぎません。
大須賀は「敵」と決めつけた竹内に対して、藁人形論法に基づく罵倒をこれでもかと繰り返しているかに見えます。
しかも大須賀は竹内の著書を引用したAll Aboutさえも批判し、竹内の著書の版元である方丈社とAll Aboutの編集のことを「フェイク情報による脅迫の共犯者」呼ばわりまでしています。
「愛子天皇の実現は絶対に正しい」というイデオロギー以外は絶対に認めない大須賀は、All Aboutは「明確な嘘と、妄想の開陳を、言論の自由の下に流通させ」ていると決めつけて罵倒し「その無責任な姿勢に、強く抗議します」とまで言っています。
どうやら大須賀は、言論の自由の意味が分からない人であるようです。
しかし忘れてはいけないのは、大須賀ブログの特徴は実は小林に対してこっそり指桑罵槐しているということです。だから今回の場合でさえも、大須賀は竹内久美子への批判を装って小林への批判を行っている可能性があります。
>そうしたサイトが、多数の誤りや、妄想レベルの言葉で満たされたこんな記事を配信して大丈夫なのか?
現在の大須賀は小林ブログやライジングでの時事問題の批評が、「多数の誤りや、妄想レベルの言葉で満たされたこんな記事」に見えているのでしょう。
ゴー宣道場に参加し続けて今に至っている門下生でさえも、小林による評論を過去から現在まで読んでいて内容のいかがわしさに気付かざるを得ない人もいるはずです。
大須賀がボスに対して指桑罵槐をするようになったのは、ゴー宣道場の幹部でありながら小林のいかがわしさに気付いてしまったからです。
>「マイルール」を勝手に加えて逃げを打っています。
小林の場合は言っている意見が出鱈目であるだけではなく、そもそも議論のやり方自体が邪道によって成り立っているという問題があります。
ゴー宣やブログで小林が論敵を攻撃したり、自分が不利になった時に逃げるために使っているやり方は、まさしく小林流の「マイルール」であると言えるでしょう。
>この記述をそのまま載せてる、原著の版元である方丈社と、All Aboutの編集は、フェイク情報による脅迫の共犯者になるんですか?
大須賀ブログはボスへの指桑罵槐という特徴を踏まえたならば、「フェイク情報による脅迫の共犯者」という言葉は実際は小林とシンパたちを批判したものである可能性があります。
小林はフェイク情報を意図的に広めて、「このままでは大変なことになるぞ」という不安商法を繰り返してきた言論人です。そんな小林を脅迫の常習者に例えたならば、彼に加担するシンパたちは「フェイク情報による脅迫の共犯者」であるとも言えるでしょう。
>竹内久美子は外国人ヘイトの喧伝にも異様な情熱を燃やす人物ですが
右傾化して以降の小林の言説は、「外国人ヘイトの喧伝」と呼ばれても仕方ない内容のものも存在しています。小林の『戦争論』シリーズでの中国人や韓国人の民族性の解説の内容はまさしくそうです。
『戦争論3』で唱えられていた反米論や小林史観でさえも、「アングロサクソンが世界を破壊している」という外国人ヘイトとも取れるような言説によって成り立っていました。
>貴社では、ミスではなく恣意的に記された明確な嘘と、妄想の開陳を、言論の自由の下に流通させつつ、その脅迫的な内容をもって国民間の議論を牽制するようなスタンスを、社是として行っているのでしょうか?
>その無責任な姿勢に、強く抗議します。
小林やゴー宣道場は、「ミスではなく恣意的に記された明確な嘘と、妄想の開陳を、言論の自由の下に流通させ」るやり方を続けて今に至りました。
不安を煽る言説をひたすら唱えて異論や批判を認めない小林やゴー宣道場のやり方は、「その脅迫的な内容をもって国民間の議論を牽制するようなスタンス」によって成り立っているとも言えます。
小林による言論テロとも呼べる数々の行いに対して、「その無責任な姿勢に、強く抗議します」と言いたくなる人もいるでしょう。
しかし、全体主義の組織であるゴー宣道場に深く関わって幹部までやらされてしまうと、小林への批判は全くできなくなってしまいます。
だからゴー宣道場では、独裁者・小林に対してこっそりと指桑罵槐をすることでしかうっぷんを晴らせない幹部もいるのでしょう。あの映像作家のO氏のように。
とはいえ、大須賀は小林やゴー宣道場のいかがわしさに気付いているにも関わらず、「愛子天皇の実現は絶対に正しい」という別の形での洗脳は全く解けていません。
大須賀が小林のことを憎んでいるのは、愛子さまへの盲目的な個人崇拝や狂信的な尊皇心に基づく気持ちが原因となっています。
何しろ大須賀はこのブログ記事で、「何としても愛子さまの立太子を阻止したいというダークな情熱のカモフラージュ」と書いて小林への指桑罵槐を行っています。
つまり、現在の大須賀は小林のことを「愛子天皇の実現という正義の目標から逃げて、カラオケ活動など変な運動でお茶を濁すようになった裏切り者」と見なしている可能性があるのです。
やはり、大須賀は偏ったイデオロギーによる洗脳が未だに解けていないようですね。
2026年04月04日 03:44
https://washiblogact3.seesaa.net/article/513970458.html
大林わるのりさんからのコメント
奴隷であってサムライではない(どころか犬以下である)
https://yoshinori-kobayashi.com/blog/12777
>高市早苗と、高市の「媚米態度」を称賛する者は、奴隷どころか媚米ポチ、つまり「犬」です。
>いや、犬で括っちゃうと犬に申し訳ないな。変な所でギャンギャンうるさく鳴くのに、いざとなったらグースカ寝ているか、一目散に逃げ出す駄犬そのもの。中国では「犬」は侮蔑に使われる語だから、大阪総領事の言葉はたぶん間違いなく「犬」への罵りなのでしょう。
>高市の熱心な支持者はおそらく「サムライ」大好きでしょうし、何なら「自分はサムライである」と自認までしていそうです。しかし、実際にはその「振る舞い」が、サムライではなく奴隷どころか駄犬にまで日本を貶めている事に、どうしてそこまで鈍感でいられるのでしょう。
大須賀ブログは小林やゴー宣道場に指桑罵槐しているという疑惑を踏まえると、これまで見えてこなかった意味がいろいろ読み取れてしまいます。
現在の大須賀は、ゴー宣道場で独裁者小林に追従し続けるシンパたちのことを、奴隷どころか小林ポチであり「つまり「犬」です」とまで言い切っています。
それどころか大須賀は小林シンパたちのことを、「犬で括っちゃうと犬に申し訳ないな。変な所でギャンギャンうるさく鳴くのに、いざとなったらグースカ寝ているか、一目散に逃げ出す駄犬そのもの」とまで言っています。
また、小林シンパたちは「論破祭り」と称してネット上で文化人を中傷したり、議員事務所に突入して『愛子天皇3』を配って自説を熱弁するなどの迷惑行為を繰り返しています。
歪んだ「正義」を信奉して暴走をし続ける小林シンパたちは、「変な所でギャンギャンうるさく鳴く」迷惑な存在であるとも言えます。
一方で、自分たちが信奉する「正義」に都合の悪い事実が発覚すると見て見ぬふりをしたり、根拠なく勇ましいことを言うだけで責任を取ろうとしない小林シンパたちは、「いざとなったらグースカ寝ているか、一目散に逃げ出す駄犬そのもの」とも言えるのかもしれません。
さらに小林シンパたちの中には、『戦争論』などの民族のアイデンティティを訴えたゴー宣スペシャルの影響を受けたせいで、自分をサムライと思い込んでいる人もいるでしょう。例えば、「拙者」を一人称にしてサムライ気取りをしていた人間と言えば、「三味線」なる小林シンパがそうでした。
小林よしのりと堀辺正史の対談本『武士ズム』を読んだおかげで、自分自身も武士道を身につけることができたと安直に思い込んでしまった小林シンパもいるのかもしれません。
しかし残念ながら、小林シンパたちの振る舞いはサムライと評価できるような立派なものではありません。パブリックマインドが欠落した状態で、歪んだ「正義」を信奉しながら迷惑行為を繰り返すことはサムライの振る舞いとは言えません。
そして何よりも、小林シンパたちは誰よりもプライドが高いくせに、運動団体では小林やちぇぶという独裁者に媚びているせいで本当の意味での自らの誇りを放棄しています。
ゴー宣道場で独裁者小林に媚びて自分自身の誇りを放棄してしまったシンパたちは、「実際にはその「振る舞い」が、サムライではなく奴隷どころか駄犬」そのものになっていると大須賀は思っているようです。
しかし裏を返すならば、本音を殺して憎い小林に媚び続けたせいで、精神的には「サムライではなく奴隷どころか駄犬」になってしまった人といえば他ならぬ大須賀自身もそうではありませんか。
もしも大須賀が自分の言っていることややっていることの意味を自覚できているならば、内心では後ろめたさを感じているでしょうし、ストレスを相当貯め込んでいることになるでしょう。
ただし、現在の大須賀が独裁者小林に面と向かって批判をせずに、ブログでこっそりと指桑罵槐をしている有様はサムライと呼べるような誇り高い姿ではありません。
「核により抑止」された日本の主体性
https://yoshinori-kobayashi.com/blog/12796
>国家も企業も個人の生活も、その破綻を招く最大の要因となるのは「突発的な非常時」よりも(それはトリガーにすぎず)、「長年にわたる日々の浪費」です。そうした浪費の中でも一番恐ろしいのは、形や数値ではわかりにくい「主体性を支える精神の浪費」ではないでしょうか。
大須賀が書いているこの文章は、末期症状を迎えた現在のゴー宣道場とシンパたちを的確に言い表わした名文と言えます。
ゴー宣道場の幹部や門下生たちは、独裁者小林や運動団体に追随し続けることがアイデンティティとなってしまい、「主体性を支える精神の浪費」を繰り返しながら今へと至りました。
小林のXデーやその後のことを考えもせずに運動のための運動を続けてきたゴー宣道場は、「その破綻を招く最大の要因となるのは「突発的な非常時」よりも(それはトリガーにすぎず)、「長年にわたる日々の浪費」」という警告が当てはまっているかに見えてしまいます。
小林が死去してゴー宣道場の運動そのものが終焉を迎えた時、シンパたちが何事もなかったかのように日常へ復帰できるかどうかは未知数です。
そういった事態が起きた時の小林シンパたちは、大多数の人間が自らの人生における最大級のアイデンティティクライシスに直面する可能性が高いでしょう。
>「AIに支配される」までもなく、魂を抜かれて「ただ死んでいない」状態になってしまう事には、徹底的に抗って生きます。
大須賀は、「魂を抜かれて「ただ死んでいない」状態になってしまう事には、徹底的に抗って生きます」と書いてみせることによって、独裁者小林への面従腹背を宣言しています。
しかし、独裁者小林に面と向かって批判できていないことや、運動団体を脱会することができていない時点で、大須賀による反抗精神は中途半端なものでしかありません。
独裁者小林に対して「徹底的に抗って生きます」を実践しようとしたものの、ブログでの陰湿な指桑罵槐が関の山となっているようでは、大須賀がやっていることはあまりにも虚しいではありませんか。
2026年04月05日 06:22
https://washiblogact3.seesaa.net/article/513970458.html
※カスによる指桑罵槐
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