脱イボナメクジ宣言

小林よしのり読者であった黒歴史を告白する会

戦前戦中アナクロニズムに近寄って来たな

大林わるのりさんからのコメント

ますます戦前戦中アナクロニズムに近寄って来たな
https://yoshinori-kobayashi.com/blog/49458
今日は横浜LIVEの歌の練習をして、午後6時半からチェブリンとの生放送「愛子天皇への道」。話さねばならないことが多すぎるが、青山繁晴らが旧宮家男系男子を守るための「不敬罪」を作ろうとしてるから、将来、逮捕されないように話さねば。

ますます戦前戦中アナクロニズムに近寄って来たな。言論統制の暗い時代が来そうだ。

今日の小林は、現代の日本で「不敬罪」が作られて言論弾圧のために悪用されることを警戒しているようですが、彼のこの発言はまさしく「お前が言うな」と言い返されても仕方がありません。

なぜなら過去の小林は、自らのことを本物の尊皇家で真の保守だと気取りたいがために、自分が気に食わない右派の人たちは「不敬罪」で処罰されるべきだと平気で言っていた人間でもあったからです。

「教育勅語」の意味を知らぬアナクロ親父を処罰せよ
https://yoshinori-kobayashi.com/blog/36666
ああいう連中は、「不敬罪」で処罰するべきだろう。

そもそも小林は異論を全く認めようとせず全体主義を好む人間であるため、彼が言論の自由を守れと訴えたところで説得力は何一つありません。

肝心の小林こそが、「国旗紛失罪」や「愛国心毀損罪」を作れと提唱する全体主義者と化していることを見ると、「不敬罪」が作られて言論統制に利用される危険性を批判したところで「お前が言うな」と言い返されても仕方がありません。

国会議員こそが「愛国心」を踏みにじっている
https://yoshinori-kobayashi.com/blog/48708
どうせなら、「国旗紛失罪」を作って、国旗を持ってない者を罰すればいい。
(中略)
愛国心など、国会議員が踏みにじっている。「愛国心毀損罪」を作って、高市早苗、麻生太郎を、まず処刑して、自民党、維新の会、参政党、旧統一協会を、刑務所にぶち込むべきだろう。

また小林だけではなくゴー宣シンパたちも、異論を全く認めようとせずに全体主義を好む体質を持っています。もしかすると小林だけでなくシンパたちでさえも、本心では自分が気に食わない男系派が「不敬罪」で処罰されて欲しいとでも思っているのかもしれません。

なぜなら小林シンパの大隊長まーは、現代版不敬罪とでも言うべき「皇室損壊罪」を作れと大真面目に提唱しているからです。

princess AIKO TALK(第897回)皇室損壊罪を適用せよ!
https://aiko-sama.com/archives/70540
竹田恒泰は、明確に皇室を滅ぼそうとしています。「国旗損壊罪」がどうだとか言ってますが、こも\の(引用ママ)「宮さま詐欺師」に「皇室損壊罪」を適用した方がいいんでないでしょうか。

【愛子さまトーク】第897回 皇室損壊罪を適用せよ!
https://yoshinori-kobayashi.com/blog/46923
立法事実(法律制定の前提)がないと話題になった「国旗損壊罪」になぞらえて、「皇室損壊罪」を提唱します。皇室を現在進行で損壊している竹田恒泰を「告発」します!

まーが提唱している「皇室損壊罪」とは、何が皇室を損壊することになるかの定義が曖昧であるため、もしも日本に独裁政権が出現したならば弾圧のためにいくらでも悪用できる危険な刑罰となってしまうでしょう。

仮に小林一派が望んでいるような形で「愛子天皇の日本」が実現して、「皇室損壊罪」も存在していたならば、愛子天皇を不支持であったり、男系男子による皇位継承を支持する人たちは「皇室損壊罪」で処罰されているのかもしれません。

「皇室損壊罪」によって特定の思想を持つ人が不当に処罰されるような社会とは、「不敬罪」の再来どころか治安維持法の再来とでも言うべき暗黒社会に他なりません。

もちろん「皇室損壊罪」なる刑罰は日本国憲法に違反していますが、まーが「皇室損壊罪」を作れと真面目に提唱していることを知ると、ゴー宣道場が立憲主義の大切さを訴えてきたのは一体何だったのかと言いたくなります。

もしも小林が本気で「不敬罪」に反対しているのならば、現代版不敬罪である「皇室損壊罪」を作れと提唱している大隊長まーのことを叱るべきでしょう。

さらに、小林が戦前戦中の日本のことを「アナクロニズム」だの「言論統制の暗い時代」と言っていることに対しては、右派時代のころに何と言っていたのかを忘れたのかと問い詰めたくなります。

そもそも小林は『戦争論2』で治安維持法を擁護していた人間でもありますし、『戦争論3』では山本夏彦の著書『誰か「戦前」を知らないか』(文春親書)を引用しながら戦前の日本は暗い時代ではなかったかのように強弁していた人間でもありました。

もしも小林が右派時代のころの言説を捨てたのならば、どのような理由で意見を変えたかについて具体的に説明するべきですし、過去の自分の主張が間違っていたことを認めたならば読者に対して謝る必要があります。

小林が何の前触れもなく受け狙いのために過去と正反対の意見を言ったのならば、それはただ単なる無責任な変節に過ぎません。それにしても小林は、自分の思いつきで軽率な放言を繰り返して恥ずかしくないのでしょうか。

2026年08月22日 19:14

https://washiblogact3.seesaa.net/article/521358320.html

 

大林わるのりさんからのコメント

漫画家・小林よしのりさん「2600年以上の男系堅持は『カルト』」「この閉塞感を打破する『愛子天皇』への道しかない」
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/391934

https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/391934/2

愛子天皇の実現にひたすら固執し続けている小林は、日刊ゲンダイのインタビュー記事でも使い古されたいつもの持論を唱えています。ただし、小林が長々と変わり映えしない持論を話しているような内容でさえも、よく読んでみるとやはりあちらこちらでおかしな屁理屈が挿入されています。

しかしながら、日刊ゲンダイの記者が小林の発言に対してろくに裏を取ろうとしないのは、さすがにジャーナリズム精神とは程遠い無責任な仕事ぶりであると言わざるを得ません。だから、このインタビュー記事での小林のおかしな発言に対しては、誰かが突っ込みを入れる必要があるでしょう。

例えば小林は、愛子天皇が実現すれば「社会の意識が変わり、将来が明るくなる」ので、「この国の閉塞感を打破するには、愛子天皇への道しかない」と言っています。やはり小林が愛子天皇を推進するための理屈というのは、神がかり的な妄想がベースになっているのでしょう。

それ以外でも、小林はおかしな屁理屈を言っています。例えば、旧宮家系の養子に迎える案に現実味がないと「わしは20年前から言っている」と言っていることに対しては、元読者の人ならば「え?」と驚かざるを得ないでしょう。

今から20年前(2006年)ごろの小林は、どちらかと言うと男系男子による皇位継承を支持する立場であり、『わしズム』の巻頭言でも西尾幹二が小泉政権による皇室問題のスタンスを批判していたことを好意的に評価していました。

おそらく小林は頭脳の衰えの影響で、過去に何があったかを正確に認識することが難しくなっているのでしょうけど、よく確かめもしないまま「わしは20年前から言っている」とかつての自分の立場を捏造するのはさすがに問題でしょう。

他にも小林は、「今もSNSでは養子案に前向きな三笠宮家の彬子女王や妹の瑶子女王への批判がすさまじいが」と他人事のような発言をしています。

しかし、実際には小林こそが三笠宮家バッシングに手を出している張本人であり、犬笛作戦を利用してシンパたちにも皇族バッシングに加担させている張本人でもあります。それにも関わらず、ゲンダイの記者の前では小林が他人事のような発言をしてとぼけているのは実に卑劣極まりありません。

しかも小林は日刊ゲンダイのインタビューでは、自身のブログやライジングに書いているような三笠宮家バッシングの主張を唱えることは控えていました。ゲンダイのインタビューでの小林は、シンパたちの受けを狙うためにブログにしょっちゅう書いているような過激な発言もなぜか控えています。

おそらく小林は、公のメディアを相手にして一線を越えた発言をしたら炎上ものの騒動が起きるという自覚は薄々あるのでしょう。小林がシンパたちを相手にしながらブログで過激な発言を連発しているのは、所詮は内弁慶そのもののみっともないイキリに過ぎません。

しかし、自分がブログにたびたび書いている過激な発言に対して、もしも単純な思考のシンパが真に受けてしまったらどうなるかという危機感くらいは小林は持つべきでしょう。

小林が思想家を名乗りながら自分の発言に対して責任を取ろうとしないのは、言論人失格の卑怯者の振る舞いという謗りを免れません。

読者たちの受けを狙うためならば、過去の主張をかなぐり捨てて変節することに何も罪悪感を持とうとしないのは、まさしく小林の無責任さの最たるものと言えます。

例えばゲンダイのインタビュー記事で小林が訴えている主張は、右派時代のころならば絶対言わなかった内容ばかりであるため、明らかに変節や転向と見られても仕方がありません。

『戦争論』など右派時代のゴー宣の主張を真面目に信じていたことがある元読者の人たちからすれば、ゲンダイでの小林のインタビュー記事に対しては、「あの時、俺が信じていたことは一体何だったんだ」と読後に怒りを覚えてもおかしくないでしょう。

例えば小林は、高市首相ら右派の改憲派が「平和憲法の実践者であり、不戦を祈り続ける上皇や天皇を心の底では嫌悪しとる」と決めつけ、「その精神を受け継ぐ愛子天皇を潰して皇室から「護憲の象徴」を排除したがっている」という陰謀論を唱えています。

そもそも小林は絵に描いたような改憲派であり、不戦の考え方を「平和ボケ」として忌み嫌っていた人間のはずです。小林は立憲主義の意義を唱えるようになってからも、「立憲的改憲」と言って9条改正を肯定する立場に立っていました。

右派時代のころの小林は、『戦争論』の発表などの言論活動を通じて近代日本の戦争を正当化していた人間であり、8月15日に国内のテレビ局が反戦を訴える番組を放送することに対しては嫌悪感を露わにしていました。

逆張りで高市首相ら改憲派を批判するために、上皇陛下や天皇陛下のことを「平和憲法の実践者」と褒める小林に対しては、自分が過去に言っていた歴史観や主張とどう整合性をとるのかと突っ込みたくなります。

それどころか、小林は西部邁との対談本である『本日の雑談』シリーズでは、明仁天皇(現・上皇陛下)が日本国憲法を守ると言っていることに対しては、批判的な態度を露わにしていました。

小林は過去に自分が何を言っていたかを真面目に振り返った上で、なぜ自分が意見を変えたかについて具体的に説明する必要がありますし、もしもかつての主張が間違っていたことを認めたならば読者に対して謝るべきでしょう。

右派時代のころの言説をかなぐり捨てたかに見える小林は、ゲンダイの記者から「「戦争論」がネトウヨ増殖の土壌になったようにも思えます」と質問されたことに対しては、「意図せず極端な右傾化を生んでしまった責任は否定しません」と言っているようです。

小林のこの発言は、『戦争論』がネトウヨ増殖の土壌になったことの「責任」について、彼がようやく認める気になった内容のように見えるかもしれません。しかし、小林のレトリックに騙されてはいけません。

なぜなら小林は「意図せず極端な右傾化を生んでしまった」と言っており、自分がネトウヨの生みの親になったことに対して全面的な反省をしているわけではないからです。

小林が「意図せず極端な右傾化を生んでしまった」と言っていることからは、「『戦争論』を誤読した読者がネトウヨになったので、わしはネトウヨの生みの親ではない」という従来通りの責任逃れのための言い訳が読み取れてしまいます。

ゲンダイの記事をよく読んでみると、小林は『戦争論』で訴えた主張や右派時代のころの自らの数々の言説に対しては、未だに反省をしていないことが分かります。

何しろ小林は、「当時は自虐史観が強く、祖国のために闘った人々を“侵略者”と蔑む風潮を正そうとしたけど」とも言っており、つくる会への参加など右派時代のころの自分の活動や言論は間違っていなかったという立場に立っています。

どうやら小林は、つくる会にいたころなど右派時代の自分の活動や言説に対しては、真面目に総点検をする気が毛頭ないようです。

あえて言うならば、つくる会への参加など右派時代のころの小林は宗教右翼の組織票に頼っていたため、自らのカルト疑惑を認めることはどうしても都合が悪いという理由があるのかもしれません。

小林が右派時代のころの活動や言説を真面目に総点検したならば、カルト疑惑にも触れることにならざるを得ないでしょうし、そうなったならば、代表作の『戦争論』は組織票のおかげで売れたインチキなベストセラーだったと認めることにもなってしまいます。

過去のベストセラーは何から何まで自分の実力のおかげだったと宣伝したい小林からすれば、カルトの組織票によるまとめ買いのおかげで本が売れていたという事実を認めることはさぞかし都合が悪いのでしょう。

つくる会は正しい目的の草の根保守の運動だったけど9.11以降に突然親米ポチ化してしまっただの、或いは、『戦争論』のベストセラーは小林の実力のおかげで一般人たちが純粋に支持してくれた賜物だのという「ゴー宣史観」は、まさしく「嘘・大げさ・紛らわしい」を地で行く「ソースは小林よしのり」の典型例です。

根っからの嘘つきである小林の発言をソースとした「ゴー宣史観」は、現実の裏側に全く触れようとしない一面的な見方でしかありません。

つくる会時代の『戦争論』の栄光を未だに忘れられない落ちぶれた漫画家の小林は、自分のかつての支持母体だった日本会議が武道館で集会を開いていることが妬ましくてたまらないようです。

だから小林は、ゴー宣界隈など女系天皇推進派が「いずれ「愛子天皇を志す」国民大会で武道館を超満員にしたい」と寝言を言い、「わしだって「新しい歴史教科書をつくる会」の頃、東京・厚生年金会館を満員にした」から可能だと屁理屈を言っています。

今の小林は文化人として社会的影響力が落ちていますし、ゴー宣道場も集客力の低下と運動の衰退に歯止めがかかっていません。だから、小林のカリスマ性で愛子天皇実現運動が力を伸ばしていずれは武道館を超満員にするという夢は、明らかに達成不可能な空中楼閣でしかありません。

そもそも大多数の国民は、小林一派のように三度の飯よりも皇位継承問題の方が最重要だという偏った思考に取りつかれているわけではありませんし、もちろん愛子さまを神格化して狂信的に個人崇拝しているわけでもありません。小林は普通の国民の気持ちが全く分かっていません。

そして何よりも、かつてのつくる会が東京・厚生年金会館を満員にしたという小林の自慢話に対しては、「それこそが組織票による動員の最たるものだろ」と突っ込みたくなります。

つくる会は日本会議を支持母体にしている運動団体であり、各支部ではキリストの幕屋の信者が活動家となっていました。当時の小林と仲が良かった青年会議所(JC)の人たちも、つくる会の運動では組織票として動員されていたはずでしょう。

しかし、つくる会と宗教右翼勢力のつながりやその他の組織票の存在を認めようとしない小林は、「大勢の人が自虐史観にうんざりしていた証し」で東京・厚生年金会館が満員になったのだと平気で嘘をついています。

最近は日本会議が武道館で集会を開いたようだが、つくる会にいたころのわしだって東京・厚生年金会館を満員にしたのだという自慢話に対しては、「お前の武勇伝こそが日本会議の組織票のおかげでしかなかったのに、何のギャグだよ」と言い返したくなります。

もしかすると小林は、自分の嘘に自分自身が喜んで騙されて現実が見えなくなるという例の癖の影響のせいで、「『戦争論』のベストセラー化はわしの実力のおかげ」という嘘を自ら信じ込んで現実が見えなくなっているのかもしれません。

かつての自分はつくる会の台頭と『戦争論』のベストセラー化を実現させたから、「愛子天皇を志す」国民大会で武道館を超満員するという目標だって達成できるはずだという小林の思い込みは、今の自らの影響力や現実を無視した誇大妄想でしかありません。

呆れたことに小林は自分自身の実力を客観視することができておらず、つくる会時代のころの『戦争論』ベストセラー化の栄光にすがりついたまま現実が見えなくなっています。

自分の愛子天皇実現運動はつくる会と『戦争論』の栄光を再来させてくれるだろうという妄想にとらわれた小林が、「わしは死んでも愛子天皇を諦めんぞ!」と叫んでいる姿は実に滑稽で哀れでしかありません。

2026年08月26日 09:15

https://washiblogact3.seesaa.net/article/498264729.html

 

大林わるのりさんからのコメント

「『愛子天皇への道』今回も凄く面白かったです」
https://yoshinori-kobayashi.com/blog/49486
Alex JFKさん
ネトウヨと言われる輩には是非ネトウヨ音頭を聞いて反省してもらいたい。

tik takさん
よしりんがいなかったら、ネトウヨさんにネット言論空間を支配されていたかもしれません。よしりんの正々堂々と討論に応える姿勢のおかげで、皆もしっかりとネトウヨに反論できるようになったと思います。ありがとうございます。

現在までゴー宣道場に残って小林シンパを続けている人たちの知的レベルの残念さは、マツタケやアナモチだけでなく、「Alex JFK」と「tik tak」の発言を見ても分かります。

なぜなら「Alex JFK」と「tik tak」は、現在の小林のことをネトウヨと戦うヒーローであるかのように見なしているからです。しかし「Alex JFK」と「tik tak」は、自分の師匠である小林こそがネトウヨを生み出すきっかけを作ったという事実にはなぜか気付いていません。

「Alex JFK」に対しては、「そもそも『ネトウヨと言われる輩』を生み出した張本人はあなたの師匠だろ」と突っ込みたくなります。

もちろん「tik tak」に対しても、「今のネット言論空間の惨状をもたらしたきっかけは、『ネトウヨさん』に新ゴー宣や『戦争論』『台湾論』という聖典を与えたよしりんではないか」と突っ込みたくなります。

ゴー宣信仰を持ちながらネトウヨを嫌う小林シンパは、そもそも自分が支持している価値観はネトウヨと大差がないのではないかという疑念すら持っていないようであり、自らのことを全く客観視できていません。

現在の小林やゴー宣シンパたちは、「ネトウヨを嫌うネトウヨ」という珍妙な存在と化しています。

「Alex JFK」に対しては、そもそも小林が作ったネトウヨ音頭は「ネトウヨ=男系天皇派」という決めつけでネトウヨの定義を矮小化する欺瞞の作品でしかないとも突っ込んでおく必要があるでしょう。

小林がネトウヨの定義を「ネトウヨ=男系天皇派」という決めつけで矮小化したがるのは、皇室問題以外での自分の思想や価値観は実はネトウヨと大差がないことを隠すためでもあるのかもしれません。

そうであるならば、小林は自分がネトウヨの生みの親であるという事実を隠すために、今ごろになって反ネトウヨのヒーローを演じている卑怯者でしかないと決めつけても良いでしょう。

ネトウヨ発生の元凶であった小林が最近になって反ネトウヨを演じているのは、右派時代に統一教会に甘い態度を取っていたという事実を隠すために、今ごろになって反統一教会・反カルトのヒーローを演じている姿とも似ています。

「tik tak」は、「よしりんの正々堂々と討論に応える姿勢のおかげで」とも言っていますが、そもそも小林は普段は威勢のいい言論人を演じていながら、実際にはうるさ型の相手とは討論をせずに逃げの姿勢に徹する臆病者でしかありませんでした。

小王国のボスとなった小林は、自分が勝てない論敵とは真面目に議論をしようとせず、側近たち(例えば時浦、笹、泉美、大須賀)にブログを書かせて論破ごっこをさせるという姑息な真似をしています。

しかも小林の場合は、犬笛戦術でシンパたちにネット上での荒らし行為(論破祭り)をやらせて論敵を追い詰めようとする卑怯者でもあります。

もしも小林が言論人らしく相手との討論に正々堂々と応じる姿勢があったならば、側近にブログを書かせて論破ごっこをさせることも、シンパたちを使って荒らし行為をさせることもおそらくあり得なかったでしょう。

どうやらゴー宣シンパは自分のことを客観視できていないだけでなく、師匠である小林が何をしてきたかについても全く客観的に評価することができていないようです。

それにしても、ネトウヨ発生の元凶である小林を反ネトウヨのヒーローとして崇めるとは、ゴー宣シンパたちの知的退廃ぶりは実に深刻な有様となっています。現在の小林とシンパたちの知的退廃ぶりについては、「daigo」が書いた以下の文章を読めば分かります。

daigoさん
今回も凄く面白かったです。小林先生の「男系派の頭には脳みそではなくうんこが詰まっている」は傑作でした

小林が「男系派の頭には脳みそではなくうんこが詰まっている」と言っているのは、論理的な証明や丁寧な議論を放棄した単なるレッテル貼りでしかなく、子供が口喧嘩の際に「お前の母ちゃん、でーべそ」と叫んでいることと大差がありません。

もしかすると小林は、「うんこ」という単語を用いた下品な例えさえすれば、読者たちは受けてくれるはずだという安易な発想をしているのかもしれません。

小林のこの発想は、子供向けの下ネタまみれのギャグ漫画ばかり描いてきた三流漫画家らしい低俗なものであり、知識人や思想家にふさわしい知性が全く感じられません。

或いは小林は、「『うんこ』という下品でどぎつい単語を使って罵りさえすれば、男系派でなおかつインテリ気取りの連中はわしの不良っぽさにビビってくれるだろう」とでも勝手に思い込んでいるのかもしれません。

どうやら小林は、言論人としての真面目な議論とヤンキー的な下品な罵り合いの区別ができていないようです。現在の小林の体たらくは論客としては劣化の極みで実に残念ですが、それだけでなく、シンパたちが師匠の言葉ならば何であっても手放しで支持している惨状も実に残念であると言えます。

ゴー宣シンパの「daigo」が、小林の「男系派の頭には脳みそではなくうんこが詰まっている」という下品で頭が悪い発言を「傑作でした」と褒めているのは、まさしく現在の公論サポーターたちの知的退廃ぶりを象徴していると言えるでしょう。

2026年08月26日 18:18

https://washiblogact3.seesaa.net/article/504157729.html

 

大林わるのりさんからのコメント

執念で「君臣の分義」を守る
https://yoshinori-kobayashi.com/blog/49558
なにがなんでも「愛子さま排除法」を拒否し、養子案をこそ排除し、「君臣の分義」を守らねばならない。

小林は表向きでは天皇や皇室に対して個人崇拝に近い崇敬の念を表明しており、特に愛子さまに対しては神格化と言っても過言ではないほどの狂信的な個人崇拝を露わにしています。

しかし、小林は愛子さまへの推し活には血道を上げていても、実際には皇室に対する敬愛の気持ちは全く持ち合わせていない人間です。何しろ小林は秋篠宮殿下のことを「公けの心がない」と勝手に決めつけている上に、最近では三笠宮家に対して下劣なバッシングに手を染める有様となっています。

そもそも小林が「「君臣の分義」を守らねばならない」という言葉を本気で実践するのならば、愛子天皇の実現だけに固執するのではなく、皇位継承資格者である悠仁さまにも敬意を払うべきです。

しかしながら小林は、自分自身はミーハーな気持ちと狂信的な個人崇拝で愛子さまを応援しているにも関わらず、悠仁さまに対して人々が好感を抱くことに対しては「悠仁さま上げ」で「悠仁さまミーハー」であると決めつけて、一方的に反発する身勝手さを見せています。

愛子天皇論はミーハーだけで成り立っているものではない
https://yoshinori-kobayashi.com/blog/12396
悠仁さま成年式を契機に、男系派による「悠仁さま上げ」のXツイッター工作が目立って来た。
(中略)
愛子さま派だった知識人も、すでに騙されているようで、悠仁さまミーハーを作ることに加担しているようだ。

それどころか小林は、天皇に対する敬愛の気持ちさえも本心ではろくに持ち合わせていません。何しろ小林は、コロナ禍のころに「天皇はコロナ脳」という言葉を残していた人間でもあります。

今日の小林が書いたブログ記事は、彼が天皇に対する敬意を本心では全く持ち合わせていないことを証明する内容となっています。

電子メカ万能時代は嫌だなぁ
https://yoshinori-kobayashi.com/blog/49578

何と小林は、電気店の店員が秘書岸端を相手にパソコンの説明をしていて、機械音痴の自分をスルーしていたというエピソードのことを、「もはやわしには人権がないと思っていて、わしを天皇あつかいだ」と表現しているようです。

パソコンのことを「電子メカ」呼ばわりするほどの機械音痴であるくせに、自分が電気店の店員から時代遅れな人間と扱われることに腹を立てている時点で、小林は思想家を名乗りながら人としての器の小ささを隠し切れていません。

電気店の店員が自分を構ってくれなかったことを人権無視とブログでぼやく小林の有様は、まるで駄々っ子のようでみっともなく見えます。

駄々をこねる小林に対しては、そもそもあなたは呉智英や西部邁の影響で人権について懐疑的な主張をあれほど唱えていたくせに、自分自身が店員から構ってもらえなかったというだけで人権無視だとわめくのは見苦しいではないかとも突っ込みたくなります。

ただし、このブログ記事でどうしても突っ込んでおくべきところといえば、自称尊皇家である小林が自分自身を天皇になぞらえるというとんでもない不敬な真似をしでかしていることでしょう。

「天皇は人権がない存在だ=わしは店員から人権を尊重されなかった=だからわしは店員から天皇扱いされたようなもの」という小林の三段論法は、常人の視点で考えたならば発想自体が実に意味不明でしょう。

そもそも小林は、「天皇には人権がない存在だ」と事あるごとに言ってきた人間ですが、あろうことか「天皇もわしも人権がない存在だ=だからわしは天皇と同じ存在だ」と本気で考えているならば、発想自体が不敬そのもので人としての驕りがにじみ出ています。

自分自身を天皇になぞらえることができる時点で、小林には尊皇心も皇室に対する敬愛の気持ちも微塵も持ち合わせていないことが改めて分かります。やはり小林の正体はビジネス尊皇家に過ぎないのでしょう。

2026年08月28日 15:54

https://washiblogact3.seesaa.net/article/499373539.html

ホテルでのカンヅメ仕事で最高なこと

大林わるのりさんからのコメント

ホテルでのカンヅメ仕事で最高なこと
https://yoshinori-kobayashi.com/blog/49347

8月17日にアップされた小林ブログのタイトルは「ホテルでのカンヅメ仕事で最高なこと」となっており、自分がホテルで過ごす様子の描写がこれでもかと詳しく書かれています。

このブログ記事の文章の出だしは「ホテルでカンヅメ仕事すると」と書かれていますが、私としてはどうしても違和感を覚えざるを得ません。

なぜなら、実際の小林は創作活動をスタッフ任せにしている人間であり、彼がいつもブログに書いている漫画の仕事に関する報告は全くの作り話でしかないからです。

8月15日から17日の間にアップされた小林ブログでは、奥さんが作ってくれた朝食のメニューを写真付きで紹介するといういつものやり方をなぜかやめています。

ブログ記事「島田裕巳氏との対談と、土曜日の生放送と、「神武天皇論」と」を見れば分かりますが、8月18日になってから小林は例のごとくブログで朝食のメニューの紹介を再開しています。

島田裕巳氏との対談と、土曜日の生放送と、「神武天皇論」と
https://yoshinori-kobayashi.com/blog/49365

小林は上記のブログ記事の文章の出だしで「カンヅメ明けで」とわざわざ書いていますが、では彼は8月15日から17日の間に本当は一体何をやっていたのでしょうか。

お盆の時期に小林がどう過ごしていたかについては、おそらく以下のような可能性があるでしょう。

まずは、奥さんがお盆に帰省したせいで自分の食事を作ってくれる人がいなくなっただけのことを、小林はわざわざ「ホテルでのカンヅメ仕事」と言い換えて嘘をついている可能性があります。

筋金入りの男尊女卑で亭主関白を気取っている小林は、奥さんがいなくなると自分の身の回りのことを何もできなくなる非力な人間であるようです。

奥さんがお盆休みに帰省したせいで自分がホテルに滞在せざるを得なくなったことを、小林は「ホテルでのカンヅメ仕事」と言い換えている可能性がありそうです。

或いは、お盆の時期の小林が奥さんと一緒に福岡に帰省していた可能性もあるのかもしれません。自分は病人だけど沖縄LIVEを乗り切ったのだから、福岡への帰省くらい大丈夫だろうと小林が考えた可能性もあるでしょう。

しかしながら、現在の小林は体力の低下が著しくて歩く速度が落ちている上に、認知症に苦しんでいる人間でもあるため、彼が一人で外出をすることには困難が伴います。だから今の小林が外出をする際には、介護担当の人間(岸端かちぇぶ)が欠かせなくなっています。

もしもお盆の時期の小林が帰省をしていたならば、おそらく同行していたであろう小林夫人は介護担当の役割も果たしていた可能性があるでしょう。

ちなみに普段の小林は秘書岸端のことを、自分のドライバー担当で外出時の介護をしてくれる人間として頼っています。しかし小林ブログ「「小林よしのり漫画ブック」の配信は明日になります」によると、8月14日の夜中から15日の岸端はよしりん企画に泊まり込みながら仕事をしていたそうです。

「小林よしのり漫画ブック」の配信は明日になります
https://yoshinori-kobayashi.com/blog/49288

ではそうなると、もしも奥さんがお盆に帰省して小林がホテルに滞在していたならば、彼の送り迎えや身の回りの世話は誰がやっていたのかという疑問も当然ながら浮上します。

そもそも現在の小林は、一人で外出をして過ごすことが可能な人間であるかどうかさえも怪しいと言わざるを得ません。何しろ現在の小林は自宅の住所さえも忘れていますし、一人で電車を利用することができる人間には見えません。

果たしてお盆の間の小林はホテルに泊まっていたのか、或いは奥さんと一緒に福岡へ帰省していたのか、それとも自宅で一人きりで過ごしていたのか、そういったことさえも真相は不明です。

小林は根っからの嘘つきであるため、奥さんが帰省して自宅で一人で過ごさざるを得なくなったことを、「ホテルでのカンヅメ仕事」と言い換えている可能性ももちろんあり得ます。

もしもお盆の時期の小林が自宅で過ごしていたならば、8月17日のブログ記事で書かれたホテルで過ごす様子の描写とは、彼の過去の経験をもとに想像を膨らませて書いた嘘の報告であったことになります。

現在の小林は売れない物書きとなっているため、カンヅメ仕事と称してホテルに泊まることは痛い出費となるはずです。ゴー宣が売れていたころの昔と違って、今の小林はホテルでカンヅメをする金の余裕があるかどうかさえも怪しくなっている可能性があります。

そうであるならば、小林は金持ちアピールをするために、自分はホテルでカンヅメ仕事をできるほどの裕福な人間なのだと宣伝して虚勢を張ろうとしたのもしれません。

今の自分が売れない物書きとなって金に困っていることを隠すために、偽りの金持ちアピールをして見栄を張るというのは、小林ならばやりそうな手口です。

しかし何度でも言いますが、真相は不明であるため、私としては旧ゴー宣で小林が言っていた「決めつけはいかんよ」の名台詞に従うしかありません。

8月15日から17日の小林が実際にはどのように過ごしていたかは不明ですが、改めて言えることは、彼がホテルでカンヅメ仕事をしていたという報告は全くの嘘である可能性が高いと見ていいでしょう。小林は病的な虚言癖の持ち主であるため、彼が言っていることを手放しで信用することはできません。

2026年08月19日 18:39

https://washiblogact3.seesaa.net/article/520149277.html

 

大林わるのりさんからのコメント

出前のピザは遅いし冷えてるし・・
https://yoshinori-kobayashi.com/blog/49389
近くのイタリアンレストランからピザをとって、ウーバールーパー(上記ママ)みたいにバイクで持って来てもらったが、遅いのなんのって。

結局、ピザが冷えてるし、さっぱり美味しくない。遅いし、マズいしで、もう二度と出前なんか取らないと固く決意した。ピザはレストランで焼き立てを食べないと美味しくないな。

奥さんが作る食パンにチーズやら具材を乗せてオーブンで焼いたピザの方が、はるかに美味かった。一食損したなぁ。

明日はみなぼんが漫画ブックの編集で大忙しで、妻は朝からいないしで、わしは家にほっぽらかしにされる。どこかで外食したかったなぁ。

8月19日にアップされたブログ記事「出前のピザは遅いし冷えてるし・・」で小林は、どういうわけかウーバーイーツのことを「ウーバールーパー」と書いているようです。

小林の造語である「ウーバールーパー」が書き間違いで生まれたものであるならば、やはり頭脳の働きが衰えたせいで文章を書くことに支障が出ているように見えます。もしかすると今の小林は、「ウーバーイーツ」の単語さえ知らないほど時代遅れな人になっているのかもしれません。

或いは小林はわざと駄洒落で「ウーバールーパー」と言っている可能性もあるのでしょうけど、その場合は彼のギャグ漫画家としてのギャグセンスが時代遅れなものとなっていることの証明にも見えてしまいます。

そもそもウーパールーパーが日本でブームになったのは1985年ごろですから、「ウーバーイーツ」と「ウーパールーパー」の単語を重ね合わせて駄洒落で楽しんでいたならば、小林の感性は昭和時代で止まったままであることの証明になってしまいます。

小林ブログの文中にある「ウーバールーパー」という造語が書き間違いで生まれたのかそうでないのかは私には不明ですが、どちらにしろ今の小林は時代から取り残された人となっていることが改めて分かります。

また、高血圧と腎臓病に苦しむ老人がわざわざピザの出前を頼む時点で、小林は病人のくせに食生活にも健康管理にも無頓着となっているようです。

小林ブログでは「明日はみなぼんが漫画ブックの編集で大忙しで、妻は朝からいないしで、わしは家にほっぽらかしにされる」と書かれているようですが、認知症に苦しむ病人である彼を家で一人きりにさせておいて本当に大丈夫なのでしょうか。

しかし以下の8月19日のブログと8月20日のブログでは、どういうわけか朝食の写真とメニューの紹介がいつも通り行われているようです。

『神武天皇論』文章で書くより、はるかに記憶に残る物語にしたい
https://yoshinori-kobayashi.com/blog/49377

『継体天皇』と、『女帝の古代王権史』と、対談本と、認知症!?
https://yoshinori-kobayashi.com/blog/49393

8月19日から20日の小林は奥さんに朝食作りを強要させているのか、もしくは配食サービスか宅食サービスを頼んでいるのか、私には分かりません。小林は嘘つきな人間であるため、ブログで書かれている「妻は朝からいないしで」の言葉さえも話半分で聞くべきなのかもしれません。

ちなみに8月20日にアップされたブログ記事「『継体天皇』と、『女帝の古代王権史』と、対談本と、認知症!?」では、小林は本を読んでも内容を記憶することができなくなっていると告白しています。

「読破したと言っても、わしは最初からどんどん忘れていく。認知症かもしれないが、どんどん忘れるので、また再読することは約束されている

このブログで小林は「再読する度に新しい発見があるから、やっぱり認知症なんだろう」と書いていますが、内心では自らの頭脳の衰えを実感して動揺しているからこそ、軽口を叩いて病と向き合わずに誤魔化そうとしているのかもしれません。

もっとも小林の場合は、ブレーンでゴースト担当の時浦に勉強を丸投げさせているのですから、本当に読書をしているのかどうかは怪しい可能性もあるのでしょうけど。

何しろ小林は、漫画の執筆や勉強のための読書で忙しいとアピールしているくせに、一方ではカラオケ趣味やテレビドラマの追っかけに夢中になってばかりいる人間です。

8月19日のブログ記事「出前のピザは遅いし冷えてるし・・」でも、小林は亀梨和也主演の時代劇「銭形平次」に関心を示しており、芸能界やテレビドラマの追っかけが好きなミーハーな人間としての性分を露わにしています。

現在の小林は頭脳の働きの衰えに苦しんでいるだけでなく、時代からも取り残された人間となりつつありますが、本当の意味で彼に手を差し伸べてくれる人が存在しているようには見えません。

他人を自分の道具扱いして利用してきた小林が、晩年になってから本当の意味で誰にも助けてもらえずに、テレビだけを友達とする孤独な人間となっている光景は実に哀れです。今の小林が置かれた境遇は、まさしく「自業自得の転落人生」の言葉がこれ以上なく似合うでしょう。

2026年08月20日 13:24

https://washiblogact3.seesaa.net/article/519950762.html

 

大林わるのりさんからのコメント

猫じゃないもん。
https://yoshinori-kobayashi.com/blog/49379

8月19日の小林は、何を思ったのか「猫じゃないもん。」というタイトルのブログ記事をアップしていました。

私は同日の小林ブログを読みながら、「それにしても小林はどういう意図で、こんな気持ち悪い内容の記事を書いたのか」と理解に苦しんでいました。

とはいえ、このブログ記事を何度も読んでいるうちに、今の小林が置かれた境遇とやらが少しずつ見えてきたような気がします。

まず言えるのは、小林が金髪の女帝との惚気話をアピールした文章であるということです。小林は非モテのスケベ男であるため、自分につき従う女性ができると調子に乗って惚気話をアピールしたがる癖があります。

だから、小林が金髪の女帝の食欲が並外れていることをアピールしているのは、「わしのちぇぶは、こんなに強くてたくましくておちゃめなんだぞ」と言いたがっているかのようにも見えます。

小林がちぇぶの気の強さにたじたじになっているシーンをブログで紹介しているのは、自分は女性の尻に敷かれる男だから男尊女卑の人間に見えて本当はフェミニストなんだぞと読者にアピールする狙いもあるのでしょう。

小林が自己宣伝のためにやっている手口とは、DV男が自分は普段は身近な女性(恋人、妻)の尻に敷かれていると強調したがるやり方に似ているようにも見えます。

或いは、ちぇぶは気が強くて偽悪的な言動をしているかのように見えるけど、猫に例えつつもわしの健康を気遣ってくれているんだぞとでも小林は言いたいのかもしれません。今の小林は老いらくの恋に溺れているため、彼が金髪の女帝について書いた文章は何かしらのラブメッセージが含まれています。

不治の病に苦しむ今の小林が、金髪の女帝から死ぬ前の猫に自分がなぞらえられたせいで、死に対する恐怖心が強まると同時に、「だから、今のわしが頼れるのはちぇぶしかいないんだ」という依存心も深まったであろうことは想像に難くありません。

わしは猫じゃないもん」と小林が言っているのは、死の恐怖に悩まされている彼が金髪の女帝への甘えと依存の気持ちを表明した言葉のようにも読み取れます。

しかし、金髪の女帝は果たして小林のことを気遣っているのかという疑問に対しては、私は「否」と答えざるを得ません。もしも金髪の女帝が小林の健康を本当に気遣っているならば、イベントへの参加や歌の練習を強要させることなく療養を優先させているはずでしょう。

金髪の女帝が今の小林を死ぬ前の飼い猫の様子になぞらえて、「先生は水を飲まなすぎるから、干からびて死ぬモードに入っている」と平然と言うことができているのは、ボスに対する気遣いや優しさとしての言葉には見えません。

現在の小林は不治の病に苦しむ身となっていますが、周りにいる人たちは彼のことを本気で助けようとはしていません。それどころか小林夫人に至っては、「コロリころげた木の根っ子」疑惑がちらつく人間でもあります。

これらの背景を踏まえると、金髪の女帝がボスを死ぬ前の飼い猫になぞらえている発言の真意とは、いかなるものであるかがつくづく察せられてしまいます。もしかすると金髪の女帝は小林のことを、ペットの猫のように自分が支配して監督下に置いている存在とでも見ているのかもしれません。

仮にそうであるならば、金髪の女帝がボスに対してやっていることはやはり洗脳支配であると言えるのでしょうし、悲しいことに小林は騙されたまま自分の置かれた境遇が全く見えていない状態であるとも言えます。

しかも金髪の女帝は自分の飼い猫とは違って、ボスに対しては本音では愛情を持っていないであろうことは想像に難くありません。

おそらく彼女がボスを死ぬ前の猫になぞらえた本音とは、単刀直入に言うならば「死ぬ間際の猫のように、このクソジジイも早くくたばってくれないかなぁ」という意味なのかもしれません。

金髪の女帝が小林のことを、死ぬ間際の飼い猫と同じく「干からびて死ぬモードに入っている」と言っているのは、自分のボスが病でいつ死ぬかの時期を見積もっている発言としても読み取れてしまいます。

残念ながら小林は漫画家として物語を作ってきた人間であるくせに、他人の気持ちを読み取る能力が致命的なまでに欠落しているようです。しかしながら、小林は他人の気持ちが分からないくせに、誰かに依存して利用してやろうと企む身勝手さは並外れて強い人間でもありました。

そもそも小林は、ゴー宣の作中では自分のことを強い「個」を持った人間であるかのように宣伝していましたが、実際には一人で生きることができずに絶えず誰かに依存し続ける非力な人間でしかありませんでした。

あえて言うならば、小林は誰かと共依存の関係になることによって暴君として振る舞い続ける人生を送ってきた人間でした。

家庭では奥さんに依存し、よしりん企画ではスタッフに創作活動を丸投げさせ、言論活動のための勉強やゴーストの仕事ではブレーン(昔は金森、今は時浦)に依存し、ゴー宣道場では金髪の女帝に運営を丸投げしていたのが小林の人生の軌跡でした。

小林は他人を自分の道具として利用したがる人間でもあると同時に、一人で生きられずに絶えず誰かに依存したがる人間でもあります。だから小林は周りの人たちに対する感謝の気持ちを持とうとせず、「わしを中心に世界が回っている」と思い込みながら人生を送ってきました。

しかしながら、小林が支配したつもりでいる人たちは、実際には彼に対して完全に屈服して牙を抜かれたわけではありません。

不治の病に苦しむようになった小林に対して、周囲の人たちがなぜか療養を勧めようとしていないのは、彼による理不尽な仕打ちへの長年の恨みを晴らすための復讐のようにも見えてしまいます。

小林の毎日の朝食がなぜか療養にふさわしくないメニューばかりであることや、奥さんの外出で彼が家で一人きりにさせられてブログに愚痴を書いていることに対しても、私は何かしらの引っ掛かりを覚えてしまいます。

小林夫人に「コロリころげた木の根っ子」疑惑があるのは、状況証拠的に見れば仕方がありません。

同じく金髪の女帝にも「コロリころげた木の根っ子」疑惑があることは、歌の練習を装いながら病に苦しむ老人を虐待していることからも分かりますし、自分のボスを死にゆく飼い猫になぞらえていることからも分かります。

しかしそれでもなお、小林は誰かに依存する生き方をやめられないのでしょうし、「わしは周りを支配できているし、世界はわしを中心に回っているのだ」という物語を信じ続けていたいのでしょう。

自分に忠実な子分を欲しがる性格であった小林が、金髪の女帝のおべっかにコロッと騙されて洗脳支配されるようになったのは、ある意味で、他人を自分の道具として利用し続けてきた生き方に対する因果応報であるかのように見えます。

小林が書いた気持ちの悪い内容のブログ記事は例のごとく惚気話のアピールであり、金髪の女帝に対する甘えと依存の表明のようにも見えますが、何度も読んでいるうちに得体の知れない恐怖心をじわじわと覚えざるを得ませんでした。

やはり小林は老いらくの恋の影響で盲目になっているせいで、今の自分が金髪の女帝からどのように見られ、いかなる状況に置かれているかが全く分かっていないのでしょう。

2026年08月27日 12:42

https://washiblogact3.seesaa.net/article/500434854.html

新作アイデアと過去作の研究

大林わるのりさんからのコメント

漫画=イデオロギーではない
https://yoshinori-kobayashi.com/blog/49345

小林は知的コンプレックスに苦しんでいる人間であると同時に、思想や哲学というものを「権威」として崇めて自らのアクセサリーとして利用したがる権威主義者でもあります。

だから小林は、自分の漫画は深い思想を持った高尚な作品であると自慢したがる人間であり、自らは漫画家や言論人としても優れた思想家であると威張りたがる人間でもあるわけです。

一方で小林は、思想や哲学に対して知的で高尚な「権威」としての憧れを持っている人間でありながら、別の場面では、自分は硬直したイデオロギーは嫌いだと強調することも少なくありませんでした。

しかしながら小林は独善的で狭量な人間であるため、彼がやっていることの実態とは、自分の考えに合わないものに対して一方的に「イデオロギー」のレッテルを貼って憎悪しているだけに過ぎません。

例えば小林はこのブログでは、NHKスペシャルでのアニメ「白い旗」とドキュメンタリーパートに内包された反戦平和のメッセージのことを、「イデオロギー」と決めつけて否定的な評価をしています。

小林が言う「思想」や「哲学」とは「わしの考えに合うから正しい」という意味であり、一方で彼が言う「イデオロギー」とは「わしの考えに合わないから気に食わない」という意味として読むべきでしょう。

そもそも小林は、「この世でわしの考えだけが正しい」と根拠なく思い込んでいる独善的な人間であるため、異論を突きつけられて反論することができなくなると、相手を「敵」扱いして一方的に憎悪する悪癖があります。

しかし一方で小林は独善的な性格でありながら、自分の頭でものを考えたり、物事を論理的に分析したりする能力が欠落している人間でもあります。だから小林の場合は、ブレーンとして頼っている人間や、「権威」として認めた人間に何かと影響されがちとなっています。

独善的な性格で権威主義者でもあった小林は、ブレーン担当の人間の助けを得たことによって、一時期は言論もどきのプロパガンダ漫画を量産する絵解き漫画家として成功を収めることができました。

しかしながら、小林は自分の創作物は深い哲学を持っていると自慢してきたくせに、一方で創作者としての自らはイデオロギーまみれの絵解き漫画しか描けなくなっていると指摘されることを嫌がっています。

ゴー宣の作者となって以降の小林は、イデオロギー漫画ばかり描くイデオローグと化してしまったという指摘は、彼にとっては図星そのもので都合が悪いのでしょう。

そのせいもあってか小林は、「漫画=イデオロギーではない。漫画家=イデオロギーではない」とブログで強調することによって、自分はイデオロギー漫画しか描けない絵解き漫画家となっているわけではないと必死で言い訳しています。

小林が自分の絵解き漫画を、手塚治虫や中沢啓治の作品になぞらえて「イデオロギーからはみ出した情念」がこもっているのだと言い訳したがっている様子は、いつものことながら権威主義者らしい仕草にしか見えません。

しかし、小林がゴー宣の連載を通じて発表し続けた8ページの言論漫画も、彼名義で出版された数々のスペシャル本も、イデオロギーが前面に打ち出されたプロパガンダ作品以外の何ものでもありませんでした。

例えば、小林が女系天皇プロパガンダを主張するために発表した数々のスペシャル本は、誰がどう見てもイデオロギーまみれの絵解き漫画の最たるものであったと言えます。

それどころか小林の代表作となった『戦争論』は、右派陣営で右派論客たちが唱えていた歴史観や思想や言説を取りまとめたイデオロギー本であり、典型的なまでの絵解き漫画に他なりませんでした。

ただし小林にとっては、『戦争論』を「戦争肯定」のイデオロギー本として批判されることはさぞかし都合が悪いようです。

しかしながら、『戦争論』で「戦争の爽快感や充実感や感動を学ぼう」だの、「勝ってる戦争はやっぱりカッコイイぞ」だのと描かれていたことは、戦争を美化する内容として批判されても仕方がありません。

もちろん、『戦争論』が大東亜戦争肯定論を前面に打ち出した著書となっていることも、歴史認識や戦争観においてバランスが欠落したイデオロギー本と化してしまったと批判されても仕方がありません。

ちなみに昭和後期のころに活躍した保守派の知識人たちを見ると、林健太郎も山本七平も猪木正道も小林のような偏った大東亜戦争肯定論者ではありませんでした。

右派陣営の中でも急進的なものとして扱われていた歴史観や言説を社会に流布させてB層に信じ込ませてしまったことは、小林の『戦争論』がもたらした負の影響の一つであったと言えます。

残念なことに、小林は自分の『戦争論』が社会や人々に与えた負の影響について未だに反省をすることができていないようです。

小林の場合は『戦争論』の発表がもたらした過ちに対して反省ができていないだけでなく、自分自身がイデオロギー漫画ばかり描く硬直したイデオローグとなったことに対する反省もできていません。

なぜなら小林は、自分の漫画には深い思想や哲学が内包されているだの、自らが手がけた作品には情念が宿っているだのといった屁理屈を使うことによって、イデオロギーまみれの絵解き漫画を制作することをひたすら正当化し続けてきた人間であったからです。

小林にとって「思想」や「哲学」や「情念」という単語とは、自分自身を飾り立てて実際以上に賢くて偉い存在に見せるために使われたり、自らが創作者として絵解き漫画の方面に逃げることを正当化するために利用されただけに過ぎませんでした。

2026年08月18日 03:06

https://washiblogact3.seesaa.net/article/521359264.html

 

大林わるのりさんからのコメント

「おぼっちゃまくん」新作アイデアと、過去作の研究
https://yoshinori-kobayashi.com/blog/49320
そのうち、全く違う漫画のアイデアが浮かんできて、これをどこかに持ち込もうか?と思い出した。手塚治虫だって、虫プロ倒産のあと、原稿の持ち込みしたらしいから、いいんじゃないか?とか妄想し始めた。

そのうち、この漫画がアニメ化されたら、主題歌をわしが作詞作曲しようと考え出して、メロディが浮かび始め、スマホで作詞をメモし始めた。

だが、朝起きたら、メロディをすっかり忘れていた。無駄に時間を使ってしまったな。

島田裕巳氏との対談と、土曜日の生放送と、「神武天皇論」と
https://yoshinori-kobayashi.com/blog/49365
これは日本の「オデュッセイア」だと気づく人が出てくれば、単行本になった時、売れるはずだ。

売れない物書きとなった小林は、脳内で作り上げた幼稚な誇大妄想に溺れることによって現実逃避を図っています。

呆れたことに小林ときたら、自分が思いついた新作漫画がアニメ化までされたら主題歌を自作しようという妄想に溺れ込み、無意味な作詞に夢中になっていたようです。

今の小林は面白い作品を作る能力が失われている上に、出版社や編集者からも相手にされない人間となっているため、ギャグ漫画でヒット作を生み出すことはもはや不可能となっています。

しかしながら小林は現実を見ようとせず、自分にはヒット作を生み出す力があるという誇大妄想に溺れることによって精神的な自慰にうつつを抜かしています。

しかも小林は権威主義者の俗物であるため、自分のことを手塚治虫という「権威」になぞらえて過大評価するナルシシズムに陥っています。おそらく小林は、虫プロ倒産後に手塚治虫が復活したことと同じく、今の自分もどん底から必ず復活できるはずだとでも思いたがっているのでしょう。

しかし今の小林が、金髪の女帝を利用して自分名義の原稿を出版社に持ち込んだところで、編集者たちがまともに相手にしてくれる可能性は低いでしょう。

その場合で考えられるのは、金髪の女帝が編集者を怒鳴りつけて、小林が業界でさらに孤立してしまうという最悪の事態も当然起こり得るであろうことは目に見えています。

また、小林が自分にはヒット作を生み出す力があると思いたがっているのは、建国論シリーズが大ヒットして歴史に残るという誇大妄想に溺れていることからも分かります。

小林は自分名義の建国論シリーズのことを、「これは日本の「オデュッセイア」だと気づく人が出てくれば、単行本になった時、売れるはずだ」と言って必死で自画自賛しています。

小林が自分名義の作品をホメロスの叙事詩「オデュッセイア」になぞらえているのは、漫画家としての自らを手塚治虫になぞらえていることと同じく、典型的なまでの権威主義者の俗物としての仕草に過ぎません。

小林の正体とは、世間で「権威」とされたものに憧れていて、自分自身も「権威」になって威張りたいと思っている浅ましい俗物でしかありません。

建国論を「オデュッセイア」になぞらえる小林の台詞は典型的なまでの虚勢ズムですが、もしかすると彼は誇大妄想に溺れ込んで本気でそのように思いたがっているのかもしれません。

何しろ小林はあの小保方晴子と同じく、自分が作り上げた嘘に自らが喜んで騙されて現実が見えなくなるというとんでもない悪癖を持っています。

もしかすると小林は、古代史を題材にした歴史小説や漫画をろくに読んでいないからこそ、自分名義の古代史の絵解き漫画を本気で過大評価することができているのかもしれません。

もしも小林が日本の古代史を題材にした他の作品を知っていたならば、自分名義の建国論シリーズを「日本の「オデュッセイア」だ」と言うような真似は恥ずかしくてできるはずがないでしょう。

小林の振る舞いは、まさしく「井の中の蛙大海を知らず」の諺がこれ以上なく当てはまっています。

今の小林は幼稚な誇大妄想に溺れて気持ち良くなろうとしているようですが、彼が精神的な自慰行為に耽って自己逃避を図ったところで、自分自身に突きつけられた厳しい現実が消えてなくなることは決してあり得ません。

2026年08月19日 20:25

https://washiblogact3.seesaa.net/article/521359264.html

 

大林わるのりさんからのコメント

「自分とは何者か?」というアイデンティティへの問い
https://yoshinori-kobayashi.com/blog/49270
だが、日本人にだって、「おぼっちゃまくん」のような、資本主義を丸ごと呑み込むほどのスケールのデカい漫画を描ける者がいるのだ。

「おぼっちゃまくん」が猛烈に面白い
https://yoshinori-kobayashi.com/blog/49284
幻冬舎文庫の「おぼっちゃまくん」を読んでるが、猛烈に面白くて、腹がねじれそうに可笑しい。これは明らかに天才のギャグ漫画だな。

これほど笑える漫画を当時の子供たちは読んでいたのか!羨ましいな。今年の夏祭りで、子供2人がこの文庫本を持って控室に来ていたが、もうボロボロになるまで読み込んでいて、破れたページにテープを貼って補強していた。

この漫画はやっぱり、わしが死んでも残るな。不朽の名作だ。

「おぼっちゃまくん」新作アイデアと、過去作の研究
https://yoshinori-kobayashi.com/blog/49320
今度「『おぼっちゃまくん』でカメの話を描きたいのだが、資料として、幻冬舎文庫の何巻を持って行ったらいい?」とトッキーに聞くと「6巻」と応えた。確かに役に立っているが、冒頭から読んでいくと、あまりに面白すぎて、なぜこんなに面白く描けたのかを研究し始めた。

昔から小林は自分の作品を自分で褒めることが珍しくありませんでしたが、最近の小林ブログでは『おぼっちゃまくん』に対して自画自賛の言葉が書かれることが目立つようになりました。

売れない物書きとなり、漫画家として終わった存在となった小林は、『おぼっちゃまくん』のヒットという過去の栄光にすがりつくことで自我を安定させようと必死になっているのかもしれません。

しかしながら、小林が『おぼっちゃまくん』のことを「わしが死んでも残るな。不朽の名作だ」と言っているのは、明らかに無理があります。

確かに『おぼっちゃまくん』はバブル期にヒットしたことで時代と寝た作品になれたことは事実でしょうけど、所詮は下ネタと駄洒落に頼った下品なギャグ漫画に過ぎないため、古典として後世に残る可能性は低いでしょう。

小林が『おぼっちゃまくん』のことを「資本主義を丸ごと呑み込むほどのスケールのデカい漫画」と言って自画自賛しているのは、ハッタリを使いながら自分の漫画を深い思想を持った作品であるかのように見せたがるいつもの癖の表われに過ぎません。

また、商売的な面で見るならば、出版社が『おぼっちゃまくん』を相手にしてくれていない時点で、同作をこれから積極的に売り出して人々に作品の価値を知らしめることは難しくなっていると言えます。

『おぼっちゃまくん』に関して言うならば、幻冬舎の『小説幻冬』で連載していた続編が打ち切りとなり、かつての古巣であった小学館からも相手にされていない状態となっています。

昔はコロコロの看板漫画であったにも関わらず、「週刊コロコロコミック」のサイトに『おぼっちゃまくん』が未だに載っていないのを見ると、同作が今の小学館でどのような扱いと評価を受けているかはある意味で想像に難くありません。

漫画業界からは過去の遺物のような扱いを受けている『おぼっちゃまくん』が、今のままでは小林の死後にさらに忘れられた存在となっていくであろうことは目に見えているでしょう。

2026年08月19日 20:37

https://washiblogact3.seesaa.net/article/520039357.html

 

大林わるのりさんからのコメント

小林よしのり漫画ブックVol.28配信中!「なんやしらんが権威主義」が国の行方を危うくする!!
https://yoshinori-kobayashi.com/blog/49513
「なんやしらんが権威主義」の愚かさ、危うさは『ゴー宣』スタート時から訴え続けているにもかかわらず、その当時よりもはるかに劣化が進んでいるような状況になっていることには驚くしかありません。やはり『ゴー宣』は国民の教科書にしなければなりません!まずは「小林よしのり漫画ブック」をもっともっと広めたい!!

小林の旧ゴー宣は「権威よ死ね」をスタンスとしており、同著で初期に描かれた洋平くんの章でも権威主義の愚かを訴えていました。

しかし皮肉なことに、「権威よ死ね」を旗印にしていたはずの小林本人こそが、実際には誰よりも権威主義者そのものの俗物に過ぎなかったことは、あらゆる場面を通して今ではDOJOウォッチャーたちに知れ渡ってしまいました。

そしてもちろん、小林のアシスタントである時浦も、師匠と同じく絵に描いたような権威主義者の俗物であるようです。時浦が権威主義者となってしまったのは、やはり彼の生い立ちが背景にあったと見るべきでしょう。

おそらく時浦は、教師であった父親からの厳格な教育の影響で、教科書に書かれた内容を何も疑わずに鵜呑みにするガリ勉秀才になり、その結果、典型的なまでの権威主義者の人間になってしまったのかもしれません。

漫画家の職業に憧れるようになった時浦が手塚治虫ファンとなったのも、手塚のことを漫画界を代表する「権威」と認めて崇めたからという権威主義が根底にあった可能性があるでしょう。

小林のアシスタントとなった時浦は、師匠のことを「権威」と見なして盲信する人間となり、権威主義者としての生き方が改善されることはありませんでした。

時浦が心酔する小林が根っからの権威主義者であったことも、師匠のイエスマンとなった彼が権威主義者としての生き方を改善できない一因になってしまったと言えるのかもしれません。

小林の狂信者となった時浦は、旧ゴー宣が権威主義の愚かさを訴えていたことを褒めようとして、「やはり『ゴー宣』は国民の教科書にしなければなりません!」とまで力説しているようです。

しかしながら、時浦が権威主義を批判したいがために、ゴー宣を「国民の教科書」という権威として認めるべきだと訴えているのは、実にたちの悪いブラックジョークにしか見えません。

ちなみに小林は独善的で押し付けがましい人間であるとはいえ、かつては建前だけの言葉であっても「わしを疑え」と読者に訴えていました。

師匠が発表したゴー宣でさえも「権威」として手放しで崇めるのではなく、書かれている内容を疑いながら自分の頭でものを考えて読んでこそ、「わしを疑え」や「権威よ死ね」の言葉の実践につながるはずだということが、小林信者の時浦にはなぜか理解できていません。

時浦の「『ゴー宣』は国民の教科書にしなければなりません」という言葉からは、賢い自分が「正義」や「権威」として認めた特定の教えを愚かな人々に押し付けて啓蒙してやろうという驕りの気持ちが読み取れてしまいます。

純粋まっすぐ君が権威主義に陥って暴走することがいかに危険であるかという事例は、時浦の悲劇的な人生が何よりもよく物語っていると言えるでしょう。

2026年08月25日 00:29

https://washiblogact3.seesaa.net/article/506458113.html

運動のための運動を続けながら飯を食っていくために

大林わるのりさんからのコメント

最後に愛は勝つ!
https://yoshinori-kobayashi.com/blog/49411
しかし皇統問題は、「愛子さま排除法」まで追い込まれても、男系ネトウヨ側が、あまりに明瞭に間違っているし、世論は80.90%が愛子天皇支持だから、負ける気がしない。皇室典範、再改正に向けて、我々は国民と共に、天皇陛下を支えていくだけだ。「最後に愛は勝つ!」それだけだ。

小林一派が長年に渡って続けてきた愛子天皇実現運動は、改正皇室典範(旧宮家養子案)の成立によって事実上の「詰み」を迎えたと言えます。

今もなおゴー宣道場を延命させようと悪あがきしている小林は、「最期(最後)の戦い」と称して裁判ごっこをしようと目論んでいます。しかし倉持弁護士も小林に対して指摘しているように、例の違憲訴訟は今のままでは門前払いを食らう可能性があるため勝ち目はありません。

「最期(最後)の戦い」をやろうとしていた小林は、勝ち目がない裁判ごっこの宣伝をしたところで運動団体をまとめることは難しいと気付き始めたのかもしれません。

だからこそ最近の小林は、三笠宮家を新たな「敵」に設定して皇族バッシングに手を染めることによって、運動団体に所属するシンパたちをまとめようと目論んだ可能性があるのでしょう。

また、小林が望月衣塑子の動画に出ることや島田裕巳と対談本を出すことでさえも、彼にとっては金を得て飯を食うための意味合いだけでなく、運動ごっこを続けているシンパたちの求心力を維持するための意味合いももちろんあるはずです。

例の違憲訴訟のことを「最期(最後)の戦い」とまで言っていたはずの小林は、どういうわけか今ごろになって唐突に皇室典範の再改正を目指すと言い始めたようです。

もしかすると小林は、例の裁判ごっこが門前払いを食らう可能性を倉持弁護士から具体的に指摘されたため、自分の運動にとっての重大な取り組みを、違憲訴訟から皇室典範の再改正へと変更しようと狙っているのかもしれません。

小林が自分にとっての「最期(最後)の戦い」を例の違憲訴訟から皇室典範の再改正へと変えようとすることは、ゴールポストを動かしてでも運動のための運動を続けようとする姑息な行いに他なりません。

それでも小林は、違憲訴訟を行うためという建前を使ってシンパたちからカンパを募るつもりでいるのでしょう。

しかしながらもしも小林が、裁判ごっこには勝ち目がないと分かった上でカンパを募ろうとするのならば、彼がやろうとしている資金集めは熱心なシンパたちに対する裏切り行為と見られても仕方がありません。

運動のための運動を続けながら飯を食っていくために悪あがきをしている小林にとっては、「最期(最後)の戦い」という大仰な言葉でさえも、その場の都合でどうにでも意味が変わる軽いものでしかなかったようです。

2026年08月22日 00:23

https://washiblogact3.seesaa.net/article/520765991.html

 

大林わるのりさんからのコメント

やっぱり「神話なんか関係ない」と言い出したネトウヨ。
https://yoshinori-kobayashi.com/blog/49390
本日発売のSPA!に掲載されているゴーマニズム宣言『愛子天皇論・神武天皇はアマテラスの女系である』をXで告知したら、ネトウヨがワンサカワンサと湧いてきて、「皇統に神話は関係ない!」だの「神武天皇以降が皇統だ!」だのとわめいています。

予想されたこととはいえ、この低能につける薬はありません。自分らが古事記・日本書紀を原理主義的に使って「神武以来2600年」だの「皇統は一貫して男系」だのと言ってるから、じゃあその古事記・日本書紀ではこうなってますよと返したら「古事記・日本書紀の神話は関係ない!」と言うのです。

どうせ連中は古事記・日本書紀なんか読んでもいないし、天皇は神話からつながっており、だからこそ天皇なのだと言われても、理解できるような脳なんか持ち合わせていません。おそらく連中は「天壌無窮の神勅」を何と読むかわからんでしょう。それどころか、「天照大神」が読めるかどうかも怪しいもんです。どんなに無知だろうが、どんなに矛盾していようが、どんなに破綻していようが、「男系」でさえあればいいというのがネトウヨ・男系カルトなのですから。

このブログで時浦は男系派のネトウヨのことを、皇統に「古事記・日本書紀の神話は関係ない!」と言っていると批判しています。

時浦は男系派のネトウヨに対して、「天皇は神話からつながっており、だからこそ天皇なのだ」とも言って論破した気でいるようです。

しかしながら、かつては小林や時浦こそが「皇統に古事記・日本書紀の神話は関係ない」という立場に立って、古代史や皇位継承に関する持論を唱えていました。なぜなら小林や時浦は、現代的な歴史学の見解を採用して欠史八代説を唱えていた上に、神武天皇の存在さえも否定していたからです。

男系派は古事記・日本書紀の記述を疑わずに間違った歴史観を支持しているけれど、一方で自分たちは実証史学に基づいた客観的な歴史観を支持しているのだというのが、小林一派が唱えていた持論であったはずでした。

ですから、時浦が男系派のネトウヨのことを「古事記・日本書紀なんか読んでもいない」と言って馬鹿にし出すのは、意味不明なマウントを取っているようにしか見えません。

時浦に対しては、「あなたたちは今まで何と言って男系派を批判していたんだ」「あなたは小林一派がこれまで言っていたことを忘れたのか」と突っ込まざるを得ません。

欠史八代説と神武天皇否定説を支持することは、「皇統に古事記・日本書紀の神話は関係ない」と言っているようなものですが、小林や時浦は自分の持論の内容さえもまともに理解できないまま、天皇は天照大神につながる存在と言い出すようになりました。

欠史八代説を採用しながら天皇は天照大神につながる存在だと唱えることのおかしさに気付いたせいなのか、現在の小林と時浦は、自分のいい加減な主張を取り繕うために神武天皇実在説へとシフトしつつあります。

小林の持論をノーチェックで補強するイエスマンであり続けてきた時浦が、男系派のネトウヨのことを「皇統に神話は関係ない!」とわめいていると批判したところで、「お前がそれを言うな」と言い返されても仕方がありません。

また、時浦は男系派のネトウヨのことを、「天壌無窮の神勅」や「天照大神」という単語の漢字さえも読めないだろうと決めつけて批判しています。

しかし、時浦が自分の賢さを見せびらかすために、特定の単語の漢字を読めるかどうかでマウントを取ろうとしたところで、「では小林がブログで漢字の書き間違いをしていることはどう思うのか」と言い返されたならばぐうの音も出ないでしょう。

夏祭りの応募を躊躇するな!
https://yoshinori-kobayashi.com/blog/48147
森揚平氏(引用ママ)は戦闘力が増すばかり、この夏、何を語るか楽しみだ。

高市早苗は今さえ良ければいいという刹那主義である!
https://yoshinori-kobayashi.com/blog/49119
泉美木蓮さん(引用ママ)は、2年限定の食料品消費税1%がもたらす災難に関して、ポピュリズム高市早苗を批判する。

時浦は自らが「敵」と認定した相手をヒステリックな言葉で罵倒する前に、まずは自分や周りの人たちがやっていることを客観視して反省する必要があるでしょう。

残念なことに時浦は、「人の振り見て我が振り直せ」という教訓を理解できていないようです。

2026年08月22日 05:37

https://washiblogact3.seesaa.net/article/506458113.html

 

大林わるのりさんからのコメント

ゴー宣道場で幹部扱いされている大須賀は表向きではボスの忠臣を演じていますが、なぜか小林に対してこっそりと指桑罵槐しているとも読み取れるようなブログを書く人でもあります。

そもそも大須賀が「ゴー宣道場」サイト(現・「小林よしのり全宇宙」)にブログをアップするようになったのは、元はと言えばボスである小林の命令によるものであったため、彼としては喜んで記事を書いていたわけではなかったのかもしれません。

神功皇后論〜建国論〜ゴー宣を「一瞬もゆるがせにしてはならない」理由(一次資料つき)
https://yoshinori-kobayashi.com/blog/47050
まもなくGWですが、ちょうど3年前(2023年)のGW終盤、私はちぇぶさん経由でよしりん先生に都内某所へと呼ばれました。私は「いったい何を叱られるんだろう?」と思いつつ、白装束を用意する間もないまま、いつものボサーッとした格好で現地へと向かいました。そこでよしりん先生の口から発せられたのは!「You、ブログ書いちゃいなよ」…そこから(色々略)今に至ります。

ボスの命令で嫌々ブログを書き続けていた不満が蓄積したせいなのか、最近の大須賀は昔に比べると記事をアップするペースが落ちてしまったかのように見えます。

「小林よしのり全宇宙」サイトでの過去の大須賀ブログの本数を調べると、2023年7月には35本の記事がアップされ、24年7月には30本の記事がアップされ、25年7月には35本の記事がアップされています。

https://yoshinori-kobayashi.com/blog?author=oosuga&date=2023-07

https://yoshinori-kobayashi.com/blog?author=oosuga&date=2024-07

https://yoshinori-kobayashi.com/blog?author=oosuga&date=2025-07

しかし、26年7月ごろの大須賀が「小林よしのり全宇宙」サイトにブログをアップした数は11本となっており、明らかに過去の年に比べると記事の激減は誤魔化せなくなっています。

https://yoshinori-kobayashi.com/blog?author=oosuga&date=2026-07

どうやら大須賀は、「小林よしのり全宇宙」サイトにブログをアップすることに対してやる気を失っており、仕方なしに惰性で記事を書いているかのように見えます

もちろん大須賀は小林信仰など実際にはとっくの昔に消え失せているため、最近ではゴー宣道場の活動に対しても本心では興味を失いつつあるのかもしれません。大須賀が小林や運動団体に対して幻滅してしまったことの要因は、おそらく過去の様々な積み重ねが影響しているのでしょう。

小林によって何度もやりがい搾取をさせられたことや、幼稚なよしりんバンドへの参加を強要させられたことや、ファンサイト管理人派であった自分が金髪の女帝に屈してしまったことや、ボスの無責任な思いつきを補強するためのブログ記事をたびたび執筆させられたことなど、大須賀が小林や運動団体に失望する理由となったであろう要因は探せばいくらでもあります。

それだけではなく、ゴー宣が『SPA!』編集部から打ち切り宣告を受けたことや、改正皇室典範の成立で愛子天皇実現運動が事実上の「詰み」を迎えてしまったことも、大須賀が運動に対してやる気をなくすことにつながっているのかもしれません。

そして何よりも、なりふり構わなくなった小林が三笠宮家に対してバッシングを開始したことは、皇室を大真面目に崇拝する大須賀をさらに失望させてしまったであろうことは想像に難くありません。

最近の大須賀がアップしたブログ記事をよく調べてみると、彼はちぇぶや時浦と違って三笠宮家バッシングにはまだ手を出していないようです。

天皇や愛子さまを神格化して個人崇拝し、皇室そのものを盲目的に崇拝する原理主義的な尊皇家である大須賀にとっては、三笠宮家バッシングに手を染めることはさすがに自分の良心が許さないのでしょう。

しかし、全体主義的な運動団体で幹部扱いされている大須賀は、自分のボスである小林が三笠宮家をバッシングしていることに対して異を唱えるブログを書くことは未だにできていません。

ゴー宣道場の幹部である大須賀が、独裁者・小林の三笠宮家バッシングを表立って批判することができていない時点で、彼が持っている熱烈な尊皇心の正体とやらは、所詮は自分の歪んだ「正義」に酔うためのまがい物でしかないのでしょう。

しかしながら、大須賀は本心では今の自分に対して苦悩しているのかもしれませんし、もちろん偏った運動団体に所属していることに対しても本音では心の底から後悔しているのかもしれません。

それもそのはず、8月22日の大須賀は実に意味深な言葉をブログのタイトルにしています。

好かれることを目的にしたら、取るべき決断が取れなくな〝った〟
https://yoshinori-kobayashi.com/blog/49462

このブログで大須賀は、高市首相がXでサッチャーの「好かれることを目的にしたら、取るべき決断が取れなくなる」という言葉を引用したことに対して難癖をつけています。大須賀が書いたブログ記事はいつもの通りありふれた高市批判となっているため、特に見るべき内容はありません。

しかし、大須賀がサッチャーの名言をもじって、ブログ記事のタイトルで「好かれることを目的にしたら、取るべき決断が取れなくな〝った〟」と書いたことは、ある意味で彼の本心をそのまま言い表わしているかのように見えます。

独裁者小林に好かれることを目的にして様々な理不尽な命令に従い続けていたら、偏った運動団体から逃げ出すという取るべき決断が取れなくなってしまったというのが、今の大須賀の本音なのかもしれません。

2026年08月23日 00:21

https://washiblogact3.seesaa.net/article/520705587.html

 

大林わるのりさんからのコメント

「ネトウヨ音頭」と、「愛子さまトーク」と、島田裕巳氏との対談
https://yoshinori-kobayashi.com/blog/49505

8月23日の小林ブログに書かれた駄文からは、「今のわしは、イエスマンたちや自分の意見を手放しで肯定してくれる人間しか相手にしたくない」というみっともない本音が読み取れてしまいます。

例えば小林が、朝食のメニューに和ナビィから貰った桃が出されたと紹介しているのは、「今のわしは忠臣に支持されているんだぞ」と宣伝をすることで、自分の権力を見せびらかしてマウントを取ることが狙いのように見えます。

表向きは熱心なゴー宣信者である和ナビィが、実は元ファンサイト管理人と親しい関係であるという事実は、小林は全く知らないわけではないでしょう。

和ナビィがプレゼントしてくれた桃をブログで紹介する小林からは、以下のような心の悲鳴が聞こえてきそうです。

「和ナビィはわしに桃をプレゼントしてくれた。だからあいつはゴー宣信者をやめていないし、わしのことをまだ裏切っていないんだ。破門された元ファンサイト管理人よ、お前と仲がいい和ナビィはまだわしの忠臣なんだぞ。忠臣に慕われるわしの権力の偉大さを思い知れ、どうだ参ったか」

今の小林がイエスマンだけを相手にして満足したがる情けない人間となっているのは、彼が大隊長まーの動画を毎日見ることが習慣化していることからも分かります。

小林が「良識あるメンバー」と褒めているまー、キソイ、まいこは、ゴー宣狂信者で典型的なまでのボスのイエスマンとなっています。まー、キソイ、まいこがいっぱしの論客を気取ろうとしたところで、小林にとって都合が悪い情報も紹介した上で客観的な分析をしてくれることは絶対にありません。

大隊長まーは自分の願望で物事を都合よく解釈して何かと精神勝利したがる人間であるため、政治情勢を客観的に分析することができずにたびたび予測を外し続けています。小林がまーの動画を情報源として重宝することは、言論人としての仕事には百害あって一利なしと言っても過言ではありません。

しかし小林にとっては、大隊長まーが的外れな分析をして予測を外し続けていることなど全く気にならないようです。

今の小林は、イエスマンの話を聞いて精神勝利することを欲する人間となっているため、自分に都合の悪い情報も聞いた上で現実を真面目に直視することを嫌がるようになっています。

下手をすると今の小林は、自分の願望に基づいて物事を曲解して作り上げた世界観や、脳内で生み出された嘘に基づいて組み立てた世界観のことを「現実」と信じ込む妄想狂になっていると見るべきなのかもしれません。

なぜなら小林は小保方晴子と同じく、自分が作り上げた嘘に自らが騙されて現実が見えなくなるという変な癖の持ち主であるからです。

例えば小林は、「わしの知人」が動画「愛子天皇への道」でネトウヨ音頭を聞いてウキウキしているという怪しい体験談を紹介しています。

小林がブログで紹介している「わしの知人」とは、彼がゴー宣の作中に登場させたタクシー運転手や元愛人の女性と同じく、読者を騙すためにでっち上げた架空の人物の可能性があるでしょう。

ただし、もしも小林が言う「わしの知人」が本当に存在していたならば、それは彼を一切批判しないイエスマンのことを意味しているに過ぎません。

小林がネトウヨ音頭を賛美するために、本当に存在しているかどうか怪しい「わしの知人」の言葉をブログで紹介したのは、今の自分を支持してくれる人間がまだ身近にいるんだぞとアピールすることが狙いなのでしょう。

小林が身近にいる人間やイエスマンたちだけでなく、架空の知人さえもでっち上げて自らを支持する声を熱心に宣伝しているのは、彼が孤独に耐えられない弱虫であることの証明でもあります。残念なことに小林は、「一人でいて淋しくない人間になれ」という頭山満の言葉を全く実践できていません。

しかしながら、社会的影響力が低下した小林を未だに手放しで支持しているのは、彼がボスとして君臨する小王国に所属しているシンパたちしかいません。

蛸壺集団のボスとなった小林は、イエスマンの意見だけを聞いて仲間たちに伝わる言葉しか言えない人間となったせいで、ますます蛸壺集団の中に閉じこもっていくという悪循環へと陥っています。

9月に予定しているイベントが「愛子天皇への道」の公開生放送で、小林が金髪の女帝や大隊長まーと一緒に話す内容となっているのは、一般人に広く言葉を伝える努力を放棄して小王国の住民だけを相手とすることを決めたようなものです。

そもそも金髪の女帝や大隊長まーは小林界隈だけで存在感を発揮している人間に過ぎないため、実社会で論客としてまともに通用する実力は持っていません。

9月のイベントで小林の話し相手となる人間が、イエスマンの金髪の女帝とまーになるのならば、公論形成とは程遠い内輪受けを狙った駄弁りで終わるであろうことは目に見えています。

小林がイエスマンたちの意見しか聞かなくなって蛸壺集団の中に閉じこもり続けるならば、ますます一般社会から乖離した非常識な人間となっていくであろうことは避けられないでしょう。

しかし、小林が小王国のボスとなって非現実的な空想を信じ込む非常識人と化したとしても、一方で、外部からの「権威」によって自らを箔付けして屁理屈を正当化したがる権威主義者としての性格は未だに直っていません。

小林の脳内では「わしの基準だけが正しい」という独善に基づいた思いと、「わしの正しさを認めてくれる『権威』が欲しい」という権威主義の思いがそれぞれ存在しています。

どうやら今の小林は、自分が信奉する直系カルト思想をもっともらしく補強してくれる知識人であるならば、オウムの元御用文化人の島田裕巳であっても「権威」として崇めてすり寄ろうとしています。

もちろん小林にとっては、世間が「権威」と認めた知識人からチヤホヤされることは、自分自身の承認欲求を満たすことにつながるので嬉しいという気持ちも当然あるでしょう。

例えば新ゴー宣の最初の章で小林が、旧ゴー宣時代に罵倒していた西部邁と握手することができたのは、大物の学者が自分をチヤホヤして承認欲求を満たしてくれたからというのが何よりの理由となっている可能性があります。

新ゴー宣が始まってからの小林が西部に感化されるようになったのは、不仲となりつつあった左派の人たちと喧嘩をするための理論武装に役に立つからというのも理由としてあったはずでしょう。

そして言うまでもありませんが、イエスマンとして小林の屁理屈をもっともらしく補強していた人間といえば、彼の身近にいるブレーンがそうであったと言えます。

ボスにひたすら追随するだけの無能な時浦だけでなく、実務能力はあるが思想的には偏向していた金森もそうですが、現在の小林を言論人として暴走させて堕落させた背景には、ブレーン担当の人間の仕事も影響していたと言わざるを得ません。

イエスマンたちや自分の意見を手放しで肯定してくれる人間しか相手にしたくないという小林の我がままな性格は、もしかするとずっと昔からの傾向であったのでしょう。

とはいえゴー宣が売れていたころの小林は、身近にいるブレーン(秘書金森)の有能な仕事ぶりや、交友関係があった知識人たちの知的レベルのそれなりの高さで何かとフォローされていたおかげもあってか、自分自身の言論人としての資質の無さを誤魔化すことができていました。

イエスマンたちだけの意見しか聞かずに小王国の中に閉じこもることを選んだ現在の小林の堕落の兆候とは、実はゴー宣が売れていた過去の時代にすでに用意されていたのかもしれません。

そうであるならば、今の小林の惨めな堕落の体たらくは、やはり「自業自得の転落人生」と言い表わした方がふさわしいでしょう。

2026年08月24日 06:22

https://washiblogact3.seesaa.net/article/519267404.html

速報!チェブリン、小林よしのりの5倍食う!

大林わるのりさんからのコメント

速報!チェブリン、小林よしのりの5倍食う!
https://yoshinori-kobayashi.com/blog/49230
速報!チェブリン、小林よしのりの5倍食う!

よしりん先生は望月いそこさんの生放送に出る前に夕食をみなぼんと3人で食べたのですが、チェブリンはよしりんの5倍の量を食ってのけたそうです!

で、このあと7時から生放送!!
https://www.youtube.com/@isokomochizuki4052

8月10日に時浦が書いたこのブログ記事は、読んでみると実に馬鹿馬鹿しいものですが、ある意味で今のゴー宣道場の腐敗と堕落を象徴する内容と言えるのかもしれません。

時浦が書いているブログは内輪受けを狙った内容であり、小林やゴー宣道場のことをよく知らない一般人の心を掴むものではありません。

おそらく前日(8月9日)の小林ブログで金髪の女帝の食欲が褒められていたことを受けて、時浦はわざわざ師匠の側近に媚びるためのブログ記事を書いたのかもしれません。

米国産生じゃがいもの輸入解禁は危険らしい
https://yoshinori-kobayashi.com/blog/49212
常にわしの倍、食っていることだけが、健康に悪影響がないか心配だが、バイタリティが凄いから、あの食欲でいいのだろう。
わしは最近、年取って食欲は減退したが、どうしても腹が出たままだ。
痩せすぎたら、貧弱に見える老人になるから、それだけは避けたいと食べているが、チェブリンにはどうしても食欲で負けるのがコンプレックスだ。悔しい。

そうであるならば、時浦は師匠のイエスマンとしての忠誠心を見せるために、小林のお気に入りである金髪の女帝の食欲をブログで褒め称えた可能性があるのでしょう。

やはり現在のゴー宣道場は、老いらくの恋にうつつを抜かす代表師範を洗脳した金髪の女帝が事実上のドンとなっているのでしょう。だから小林のイエスマンである時浦が、わざわざ金髪の女帝に媚びて内輪受けを狙うブログ記事を書いたのは、ある意味で当然の成り行きだったのかもしれません。

小林と金髪の女帝による公私混同がまかり通っているゴー宣道場では、公論形成の大義はもはや存在していないも同然となっています。

イエスマンの時浦が金髪の女帝に媚びて内輪受けを狙ったブログを書いたことは、現在の小林界隈の堕落と知的劣化を象徴する出来事に見えてしまいます。
2026年08月12日 05:28

https://washiblogact3.seesaa.net/article/510719199.html

 

大林わるのりさんからのコメント

人は城、人は石垣
https://yoshinori-kobayashi.com/blog/49248
発表する場が決まらないし、スタッフのペン入れも追いついていないのに、わしは、アイデアだけは先に先に出てしまうという変な状況になってしまった。

今日、美容室に行って、帰りに秘書みなぼんとランチしながらだべっていたら、またしても、「おぼっちゃまくん」の新ネタが浮かんでしまった。みなぼんは笑い上戸だから、だべりがアイデア会議になってしまう。わしがすでにシナリオを書き始めているネタも、みなぼんに話すと、腹を抱えて大笑い。自信を持って、週末にシナリオを書き進めよう。

しかし雑誌文化の終焉が、わしが死んでから訪れて欲しかった。まだわしはアイデアが出るのに、発表の場が縮小するばかりなのが悔しい。

それでもわしは創造しか取り柄がないので、浮かんだ妄想を馬鹿みたいに描き続けるしかない。どんどんコンテを描くから、スタッフはどんどん作画していって欲しい。

発表の場は、総合pちぇぶが自分の営業の力で見つけると、息巻いている。名刺まで作ってしまった。ちぇぶは「ゴー宣道場」も「よしりんバンド」も「公的」な活動なので、やり甲斐を感じている。「私的」な生活のみでなく、「公的」な活動に生き甲斐を見出すタイプだっているのだ。好きにやらせようと思っている。
(中略)
わしは人材に恵まれている。作画スタッフから、公論イベントまで、優秀な人材ばかりが周囲に待機して支えてくれる。「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」という武田信玄の言葉は本当だな。

8月12日のこのブログ記事を読むと、現在の小林は裸の王様と化していて、自分や周りを客観視できなくなっていることが改めて分かります。

例えば、劣化した小林漫画のアイデアを褒めてくれる岸端は典型的なイエスマンですし、よしりん企画のスタッフたちも自分たちの生活が大事なので小林社長に逆らうことは不可能となっています。

岸端や時浦のような狂信的なイエスマンをブレーンにしてしまった時点で、物書きとしての小林が独りよがりの偏った人間のまま劣化を極めていくのは不可避であったと言えるのかもしれません。

自分の創作物を発表する場が決まらないのは雑誌文化の衰退のせいではなく、物書きとして劣化した小林が業界から見限られたことを物語っているようなものです。

また、小林が精神的に依存してしまった金髪の女帝も、見え透いたお世辞によってボスを騙しているイエスマンの一人と言えます。

ボスとの老いらくの恋を利用したおかげで金髪の女帝は裏の秘書のような扱いになり、名刺まで作ることができたようですが、果たして彼女に小林漫画の発表の場を探すことはできるのでしょうか。

金髪の女帝は、他人に威圧的な態度で臨んでマウントを取りたがる性格であるため、小林漫画の発表の場を見つけようとするはずが、出版社の関係者や編集者を怒鳴りつけてしまって小林を業界でさらに孤立させてしまう可能性が全くないとは言い切れません。

そもそもゴー宣道場の関係者たちは金髪の女帝を含めてボスのイエスマンばかりであり、小林による公私混同と暴走を追認するだけの存在に過ぎません。その金髪の女帝は判断力が衰えた小林をうまく洗脳したおかげで、今では運動団体の事実上のドンと化しています。

もともと公私の区別ができない人間であった小林が、自分がやっていることはカラオケ趣味も含めて全て「公的」な活動だと思い込む身勝手な人間となってしまったのは、自らが独裁者として君臨する運動団体もどきを作ってしまったことの影響もあるでしょう。

このブログで小林が「優秀な人材ばかりが周囲に待機して支えてくれる」と書いているのは、「わしがやっていることを無批判で肯定してくれるイエスマンたちに囲まれて本当に幸せだな」と言っているようなものです。

しかし、裸の王様と化した小林は、現在の窮状がもたらされたのは自分自身の暴走が原因であることを未だに認めようとしていません。

見え透いたお世辞ばかり言うイエスマンたちは、自分の暴走を止めようとせずに追認し続けただけであったという事実に対しても、小林は未だに向き合おうとしていません。

裸の王様としてイエスマンに囲まれることに満足してしまった小林は、自分にとって都合が悪い批判を聞くつもりはないのでしょうし、真面目に現実を直視して自らがやってきたことを反省するつもりもないのでしょう。

今の小林が独りよがりな裸の王様宣言をブログに書いているのは、彼自身が物書きや人間として救いようがないほど堕落してしまったことの象徴とも言えます。
2026年08月13日 14:38

https://washiblogact3.seesaa.net/article/518567714.html

 

大林わるのりさんからのコメント

『素晴らしき哉、常識』から準男性になった「永田洋子」の残忍さを知る
https://yoshinori-kobayashi.com/blog/49328

金髪の女帝は小林のエッセイ漫画を読んだことがきっかけで、連合赤軍の永田洋子について調べて驚愕したようです。

連合赤軍の指導者となった森恒夫と永田洋子が歪んだイデオロギーを盲信して暴走し、「総括」と称して仲間たちを殺害したことの狂気の所業に対しては、あの金髪の女帝でさえも恐怖を抱くのは無理もありません。

永田洋子はあさま山荘事件などを起こした、連合赤軍の幹部メンバーでリンチをしまくって仲間を何人も殺した女ということを知りました。このメンバーのトップだった森恒夫が自己反省という名目でリンチを行ったこと、それを永田は真似して行ったこと、永田がリンチによって殺したメンバーの中には女性が何人もいたこと、さらに妊婦もいたこと、も初めて知りました。怖すぎる

しかしながら、永田洋子の所業に対して恐怖を抱いている金髪の女帝は、肝心の自分がゴー宣道場でやっていることは一体何なのかについては全く客観視することができていません。

「ゴー宣はバトル漫画だ」と言ったファンサイト管理人に対して、小林や時浦だけではなく、金髪の女帝など運動団体の幹部たちも目くじらを立てて糾弾をしていたことは、誰がどう見ても言葉のリンチと言われても仕方のない振る舞いでした。

歪んだイデオロギーのセクト団体に君臨する2人の指導者によって、集団内で浮いてしまった仲間が全否定されて排除されてしまったという意味においては、連合赤軍とゴー宣道場はある意味で似ていると言えるのかもしれません。

残念ながら、金髪の女帝は自らの間違いを認めようとしない独善的な人間であるため、ゴー宣道場での自分の所業は永田洋子にそっくりではないかという疑念を抱くことができていないようです。

また、金髪の女帝は、小林がエッセイ漫画で田中美津(ウーマン・リブ運動の指導者)の「男以上に男の倫理を信奉し、男に頭をなでられたい女は全て永田洋子だ」という言葉を引用していることに感心しています。

しかしながら、ゴー宣道場で小林のイエスマンに徹することによって地位を獲得した女性幹部たちの振る舞いは、まさしく「男以上に男の倫理を信奉し、男に頭をなでられたい女」の言葉が当てはまっていると言えます。

なぜなら運動団体で独裁者として君臨している小林は、筋金入りと言っていいほどの男尊女卑やミソジニーの価値観の持ち主であるからです。ゴー宣道場の女性幹部たちは、小林の男尊女卑やミソジニーの価値観に対しては、一切の批判をせずに追随する有様となっています。

特に、小林の最側近となったおかげで運動団体で専横の限りを尽くしている金髪の女帝に対しては、「男(小林よしのり)以上に男(小林よしのり)の倫理を信奉し、男に頭をなでられたい女は全て永田洋子だ」という言葉が誰よりもよく似合っていると言えるでしょう。

呆れたことに金髪の女帝は永田洋子に対する批判でさえも、普段の小林が言いそうな女性蔑視の思想や、高市首相に対する属性差別を正当化するために平気で利用する有様となっています。

しかしながら金髪の女帝は、自分がブログに書いている内容が、絵に描いたような属性差別に当てはまっていることには全く気付いていないようです。

女は優しくて、暴力的なことをして人を傷つけるようなことはしないなんて大ウソ。女首相なら女性が困っていることを改善してくれるなんて、そんなのただの幻想。男に媚びを売りたい女は、女に対してあまりにも残虐になることがあると過去の事件からはっきりとわかるじゃないの!

男に媚び売ることしか考えていない高市早苗が首相でいることが、女性にとってもどれほどの脅威であることか、日本の女性達よ、もう気が付け!

運動団体で独裁者小林の最側近として専横を極め、気に食わない相手を言いがかりによって糾弾して粛清する金髪の女帝の振る舞いこそが、仲間たちをリンチした永田洋子の再来に他なりません。

自らがこれまでやってきたことを客観視しようとせず、独善と自己満足に陥りながらナルシシズムに浸っている金髪の女帝に対しては、もはやつける薬はありません。

2026年08月18日 07:18

https://washiblogact3.seesaa.net/article/503469711.html

 

大林わるのりさんからのコメント

Vol.28「『ゴー宣リバイバル』なんやしらんが権威主義」
https://note.com/yoshirin_k/n/n80eb0bd3f778?magazine_key=madfc71dde6bf&from=membership-magazine

今回の漫画ブックで紹介された旧ゴー宣第21章は、小林が暗黒舞踏集団「白虎社」の合宿に参加した時の出来事を報告しながら、訪中する天皇(現・上皇さま)は自分と違って環境が整ったおもてなしをされて欲しいというメッセージへとつなげています。

1992年当時の小林は言論人や運動家として活動している人間ではなく、本業はギャグ漫画家でゴー宣はあくまでもエッセイ漫画として描いていました。だから「白虎社」での合宿体験と天皇訪中の話題を無理やり絡めた旧ゴー宣の章は、ギャグ漫画家が描いたエッセイ漫画らしいエピソードとなっています。

とはいえ1992年当時のゴー宣は現在の小林ブログのつまらない文章と違って、エッセイとしてはまだ読み応えがある内容となっていました。90年代前半のころの小林はエッセイ漫画家としては、週刊誌の読者が満足できるほどの質を保った作品を描くことができていたと言えます。

もちろん90年代前半のゴー宣は、絵においても作者の個性が感じられるものとなっていました。一方で現在の小林漫画は原稿の執筆をスタッフに丸投げしている上に、よりによって作画をAIに頼るという目も当てられないほどの惨状となっています。

2026年の小林よしのりは、漫画家としてもエッセイストとしても終わった人となってしまったことが分かります。

ところで話は変わりますが、旧ゴー宣第21章を読んだ秘書岸端は、1992年の天皇訪中のことを「ルールを捻じ曲げたっていうやつですか?」と質問しています。もしかすると岸端は、1992年の天皇訪中と2009年の習近平と天皇の特例会見のことを混同しているのかもしれません。

習近平と天皇の特例会見を実現するために小沢一郎が政治的な調整を行ったことに対しては、あらゆる方面から「1か月前ルール」の無視であるという批判が起きましたし、当時の小林もゴー宣で小沢批判の章を発表していました。

小林が小沢による「1か月前ルール」の無視を批判したゴー宣の章は、スペシャル本の『新天皇論』にも収録されています。呆れたことに岸端は小林の秘書であるくせに、民主党政権のころのゴー宣が「小沢一郎の天皇私物化を許さん!」と批判していたことさえも綺麗に忘れてしまったのかもしれません。

秘書岸端が、1992年の天皇訪中と2009年の習近平と天皇の特例会見のケースを混同しているのはさすがに論外ですが、もしも『新天皇論』に収録されている小沢批判も忘れているのならば、秘書としての資質を疑わざるを得ません。

かつての小林秘書であった末永直海や金森由利子に比べると、岸端が「脳筋秘書」として揶揄されているのはある意味で仕方がないのかもしれません。

2026年08月22日 21:31

https://washiblogact3.seesaa.net/article/498493536.html

「今上天皇だって本当に神武天皇の血を受け継いでるかわからない。あんた誰の子孫?かもしれません。」

大林わるのりさんからのコメント

言葉はニュアンスが大事である
https://yoshinori-kobayashi.com/blog/49324
言葉は字句そのものよりも、ニュアンスの方が大事である。ニュアンスの受け止め方の違いで思想的な断絶が発生する。
例えばわしが「終戦記念日に靖国参拝したくない」と言ったとする。するとネトウヨは、「小林よしのりは左翼になった」と言うだろう。
だが、わしは「英霊の前で、お祭り騒ぎに参加したくない、失礼だ」という意味で言っているので、「別の日に密かに参拝したい」というのが本音なのだ。
ネトウヨと保守の違いがここに現れる。言葉は字句そのものより、ニュアンスが大事なのだ。
言葉の字句にこだわるより、ニュアンスを察知する感性を育てよう。それがAIに勝てる秘訣である。

今の私は小林よしのりに対しては、「その場の思いつきでいい加減なことばかり言う人」という認識を持っています。ゴー宣ファンをやめた元読者たちでさえも、小林の言説がいかにいい加減なものであるかを思い知らされているはずです。

おそらく小林にとっては、その場の思いつきで唱えただけの自分の言葉に対して、内容のおかしさを具体的に指摘されたり、過去の主張との整合性について問われるのは相当都合が悪いのでしょう。

自分の主張を批判された際の小林による反論のやり方を見ると、「わしの言葉が誤読(曲解)されてしまった」という言い訳も少なくありませんでした。

例えば、リベラル派・左派が『戦争論』を「戦争賛美だ」と批判してきたことに対しては、小林は論敵が自分の主張を曲解しているという認識に立って反論をしていました。

後になって、『戦争論』がネトウヨの発生につながったという批判を浴びることになった小林は、「わしの『戦争論』を誤読したネトウヨが悪い」と見苦しい言い訳を行い、自分の言説がもたらした負の影響と向き合おうとはしませんでした。

それはそうと、8月16日のブログ記事「言葉はニュアンスが大事である」で小林は、なぜか唐突に「言葉は字句そのものより、ニュアンスが大事なのだ」と言い出しています。ごく普通の人が小林のこの言葉を読んだならば、「行間を読み取れ」という意味として解釈できるかもしれません。

一方で小林は、字句にこだわるかニュアンスを察知できるかの差が「ネトウヨと保守の違い」だとブログで書いています。小林が「ネトウヨと保守の違い」が云々と言っているのは、彼が自らの発言を正当化するために「わしこそが本物の保守だ」と定義づけるのが狙いであるかのように見えます。

しかし、小林が自分自身を「保守」として定義づけようとしたところで、彼の言説や政治的な立場が右派時代のころに比べるとリベラル化していることを指摘されるのは避けられません。

だから小林は、自分の批判者となった元読者たちに対して、お前たちは字句にとらわれてニュアンスを読み取れていないと決めつけることによって、逃げを図っているのでしょう。

何しろ小林は、自分の主張がいかに変節したかについて具体的に批判されることを誰よりも恐れています。おそらく小林は、「わしの言説がぶれたかのように見えている連中は、字句にこだわってニュアンスを読解できていないのだ」とでも言いたいのかもしれません。

何ということはありません。小林が「言葉は字句そのものより、ニュアンスが大事」と言っているのは、批判者たちは自分の主張のニュアンスを読み取れずに誤読していると言い訳するための詭弁に過ぎません。

自分の主張に対して具体的に反論されることが都合が悪いので、批判者たちを誤読(曲解)扱いして逃げるという小林の悪癖は相変わらずだったようです。

また、小林が「言葉は字句そのものより、ニュアンスが大事」と言い出したのは、知識人や思想家を名乗っているくせに有言不実行だと批判されることに対する言い訳としての意味合いもあるでしょう。

小林は文中のニュアンスを読み取るための例えとして、「終戦記念日に靖国参拝したくない」という自分の言葉は、「英霊の前で、お祭り騒ぎに参加したくない、失礼だ」という意味で使っているのだと説明しています。

しかし、右派時代のころのゴー宣に共感していたことがある元読者からすれば、今の小林が「終戦記念日に靖国参拝したくない」と言っていることに対しては、何かしらの違和感を覚えても仕方がないでしょう。

例えば小林は『戦争論2』では、総理大臣が終戦の日(8月15日)に靖国神社に参拝することの意義を主張しており、2001年ごろの小泉首相が妥協の産物として8月13日に靖国参拝をしたことを批判しています。

小林は『ゴー宣・暫』では、2006年の終戦の日に小泉首相が靖国参拝を実現したことを好意的に評価していました。

ちなみに8月16日にアップされたもう一つの小林ブログでは、高市首相が靖国参拝をせずに遥拝で済ませたことに触れています。

天皇陛下と高市早苗の言葉の違いをどう考える?
https://yoshinori-kobayashi.com/blog/49326
高市早苗は「自分は戦争の当事者じゃないから、反省しない」と言って、靖国参拝をせずに、近くの駐車場から遥拝した。

もしかすると小林は、高市首相が終戦の日に靖国参拝をせずに遥拝で済ませたことでさえも、本音ではおそらく気に食わないとでも思っているのかもしれません。

しかし小林は、自分が終戦の日に靖国神社を参拝しないことに対しては、「英霊の前で、お祭り騒ぎに参加したくない、失礼だ」と言い訳しています。

もしも我が国の総理大臣が「英霊の前で、お祭り騒ぎに参加したくない、失礼だ」という理由で終戦の日に靖国参拝をしなかったならば、おそらく小林は、例のごとく逆張りありきの反権力パフォーマンスで熱心に首相批判をしていたはずでしょう。

終戦の日に靖国参拝をしないという決断でさえも、総理大臣がやったことに対しては理由がどうであっても叩く癖に、自分自身が同じことをしたならば言い訳をしながら正当化する小林の仕草は、まさしく「他人に厳しく自分に甘い」を地で行くものです。

老人の安楽死を巡る言説もそうですが、小林は知識人や思想家を名乗っているくせに、自分自身の思想や言葉を実践できていません。

小林が「言葉は字句そのものより、ニュアンスが大事」と言っているのは、知識人や思想家でありながら自分自身の発言に対して全く責任を取らないことを正当化するための卑怯な言い訳でしかありません。

2026年08月16日 23:08

https://washiblogact3.seesaa.net/article/521358320.html

 

大林わるのりさんからのコメント

8月16日に小林はブログ記事「言葉はニュアンスが大事である」の続編として、もう一つのブログ記事「天皇陛下と高市早苗の言葉の違いをどう考える?」を書いています。後者のブログ記事でも小林は、得意げになって「字句よりもニュアンスだ」と書いているようです。

言葉はニュアンスが大事である
https://yoshinori-kobayashi.com/blog/49324

天皇陛下と高市早苗の言葉の違いをどう考える?
https://yoshinori-kobayashi.com/blog/49326
高市早苗は「自分は戦争の当事者じゃないから、反省しない」と言って、靖国参拝をせずに、近くの駐車場から遥拝した。
一方で天皇陛下は「過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い」と仰った。
首相と天皇陛下の言葉が全然違う。
さあ、これをどう解釈するべきか?字句よりもニュアンスだ。君たち、考えなさい。

上記のブログで小林は、高市首相が「自分は戦争の当事者じゃないから、反省しない」と言っていたことを批判し、一方で天皇陛下が「過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い」とおっしゃっていたことを好意的に評価しています。

逆張り言論人で自称尊皇家でもある小林は、高市首相を叩くために天皇陛下の言葉を利用しながら「字句よりもニュアンスだ」と言っています。

しかし、右傾化して以降の小林が近代日本の戦争について唱えていた歴史観や言説は、天皇陛下が終戦の日に表明した内容とはどう見ても正反対のものとなっています。

右派時代のころの小林は、大日本帝国が日米開戦に至ったのは運命であり「大東亜戦争」は聖戦そのものであっただの、日本が「自虐史観」に基づいて反省するのは今さら無意味だのとさんざん言っていた人間でした。

『戦争論』を描いて以降の小林は、国家がある限り戦争はなくならないと事あるごとに言っていた人間でもあります。それどころか小林は新ゴー宣11巻では、過去から教訓を学ぼうという考え方は「驕り」とまで言っていた人間でもありました。

一方で天皇陛下の言葉からは、過去の歴史から教訓を学びながら戦争に対して反省する姿勢が読み取れますし、不戦の誓いとしての意味合いも読み取れます。

近代日本の戦争を正当化する歴史観を持っているはずの小林が、高市首相叩きのために天皇陛下による戦争の反省の言葉を利用しているのは、自分自身の思想や言説を無視した変節として批判されても仕方がありません。

そもそも右派時代のころの小林は、高市早苗氏が満州事変を自衛のための戦いと主張していたことを好意的に評価していました。かつての小林は歴史認識では高市氏と近い考え方であったのは事実であるため、このことに対して彼は何かしらの形で釈明をする必要があるでしょう。

また、小林が高市首相叩きのために天皇陛下の言葉を称賛して利用していることに対しては、別に視点からも違和感を覚えざるを得ません。

表向きの小林は個人崇拝に近いほどの尊皇家を気取っていますが、天皇が自分と異なる考え方を持っていたらば、一転して尊皇をやめて冷淡な態度へと豹変する人間でもあります。

例えばコロナ禍の小林は、天皇陛下が感染対策の専門家から意見を聞いていることに失望し、「天皇はコロナ脳」「尾身に『公』をとられてる」とまで言っていた人間でもありました。

そういえば、富田メモが話題になっていた時の小林は、「わしは天皇を敬愛するが個人崇拝はしない」と言っていた人間でもありました。当時の小林によるこの言葉は、「昭和天皇の考え方はわしの意見とは合わないから、大御心など別に無視しても構わない」と言っているようにも読み取れます。

つまり、小林が尊皇家を気取っているのは、あくまでも上辺だけのパフォーマンスに過ぎません。自称尊皇家・小林の正体とは、自分の言葉や行いを正当化するために、天皇や皇室という「権威」を箔付けに利用している不敬な人間であると決めつけても良いでしょう。

例えば小林がカラオケ趣味のごり押しを正当化するために、「天皇が祈る沖縄」をジャイアンリサイタルのテーマにしていたことは、まさしく天皇や皇室の「権威」を箔付けのために悪用する不敬な真似の最たるものと言えます。

このブログで小林は、高市首相を叩くために天皇の言葉という「権威」を利用することによって、いつものごとく権威主義者としての俗物ぶりを発揮しています。

小林が「字句よりもニュアンスだ」とブログに書いているのは、高市首相よりも天皇陛下の方が「権威」として尊いのだから、前者の言葉よりも後者の言葉こそが正しくて無条件でひれ伏すべきものであると言っているようにも読み取れます。

そうであるならば、小林がブログ記事「天皇陛下と高市早苗の言葉の違いをどう考える?」に書いていた「字句よりもニュアンスだ」の言葉の真意とは、「大御心にひれ伏せ」というメッセージのことだったのでしょう。

つまり、小林ブログに書かれている「字句よりもニュアンスだ」とは、「権威」として認められた人物の発言ならば内容はどうあれ何が何でも正しいのだと言っているだけであり、自らの権威主義を正当化するための言い訳でしかありません。

しかも小林の言論漫画やブログで「権威」として認定されている人物は、彼の気分次第でどうにでもなる存在でもあります。何しろ小林の場合は、反消費税の論客である藤井聡が崇めるべき「権威」から憎むべき「敵」へと認識が変わっただけで、同税に関する意見さえも簡単にぶれています。

消費税を巡って意見がぶれたことでさえも、おそらく小林の脳内では「言葉は字句そのものより、ニュアンスが大事」という言い訳で正当化できているのかもしれません。

小林は自分自身の主張に対して責任を取ることを避け続けてきたため、彼が言論人として言っていることは今となっては信用に値しないものと化しています。

その時その時で言うことがコロコロ変わる小林の薄っぺらい言葉を、「字句よりもニュアンス」という理由で無邪気に信じられるのは、思考停止してゴー宣を盲信することを選んだシンパしか存在していません。

2026年08月16日 23:59

https://washiblogact3.seesaa.net/article/499373539.html

 

大林わるのりさんからのコメント

小林よしのりの言論の特徴とは、特定の対象を「敵」に仕立てて攻撃することで、自分自身を反権力の正義の味方に仕立て上げるという卑怯なやり方によって成り立っています。

しかしながら、小林は結論ありきに基づいて自らの主張の補強を図ろうとする人間でもあるため、特定の対象を「敵」に仕立てるやり方は一歩間違えると単なる陰謀論へと転落してしまうことも珍しくありません。

小林が陰謀論へ飛びついてしまう悪癖を持っていることは、論理的にものを考える能力が欠落しているだけでなく、歴史観を育む能力も欠落しているとも言えます。2001年に発表された『戦争論2』でも、小林は陰謀論を鵜呑みにしながら真珠湾攻撃の章を描いていました。

旧ゴー宣末期で小林が西岡昌紀のユダヤ陰謀論を歴史観の欠落として批判していたことは、ある意味でブーメランとして返ってきているかのように見えます。

本来ならば、ブレーンを担当している人間が小林の言説の内容に対してチェック機能を果たしていれば済む話でした。しかしながら、時浦は小林ブレーンとして言説のチェックを全くしようとせず、師匠の思いつきに基づいた牽強付会な決めつけをただひたすら補強しているだけです。

小林ブレーンとしての時浦は、イエスマンに徹しているだけの凡庸な人間でしかありません。

例えばNGT48事件の際の小林が時浦に書かせたライジング記事では、ネット上で流布していた陰謀論を下敷きにしながら、NGT48の特定のメンバーたちを不祥事の元凶であるかのように決めつけた内容となっていました。

コロナ禍のころの小林は、「新型コロナはただの風邪で感染対策は悪だ」という結論ありきに基づいて理論を組み立てながら、玉川徹や岡田晴恵などを「敵」に仕立てて攻撃していました。

反コロナ規制という結論ありきに基づいた当時の小林の言論活動は、あろうことか反ワクチンを唱えるまでに至ってしまい、今も陰謀論に基づいた一連の言説は全く訂正されていません。

最近の小林は、愛子天皇の実現ありきの立場から三笠宮家に対するバッシングを開始し、旧宮家養子案(改正皇室典範)の成立へと至るきっかけは2005年ごろの寬仁親王の発言が元凶だったと言い出すまでになりました。

Vol.583「寬仁(ともひと)親王が元凶だった」
https://note.com/yoshirin_k/n/n31f99ae0b3bb
※「ゴーマニズム宣言」…2005年11月、当時の小泉純一郎内閣の下に設けられた「皇室典範に関する有識者会議」は、女性・女系天皇を認めるべきだという報告書を提出した。この報告書のとおりに皇室典範が改正されてさえいればよかったのだ。それがなぜ、今日のような状況に至ってしまったのか?今日まであえて言わずにいたが、その最大の元凶といえるのが「ヒゲの殿下」こと三笠宮家の寬仁(ともひと)親王である。寬仁親王は亡くなるまで女性・女系天皇反対運動の中心的立場にあった。いかに男系固執派の運動を陰に陽に支援し続けたか。国会議員が愛子さまを排除し、どこの馬の骨ともわからぬ男を養子入りさせて皇族にして、その子供が男だったら天皇になれるとする「男系革命」を起こしてしまった以上は、もはや自主規制などしている段ではない!

おそらく寬仁親王は、様々な見解を参考にした上で皇位継承に関する意見を表明したのでしょうし、2026年の旧宮家養子案(改正皇室典範)の成立に至るまでの過程には、彼の発言以外にもあらゆる要因が絡み合っています。

そして何よりも、2006年ごろに女系天皇容認を含む皇室典範改正が棚上げされたのは、悠仁親王が誕生したことが決定的な原因になったと言えますが、小林はなぜこの事実に触れようとしないのでしょうか。

小泉政権が女系天皇容認を含む皇室典範の改正を断念したのも、その後で紆余曲折を経て2026年の旧宮家養子案(改正皇室典範)の成立へと至ってしまったのも、元はと言えば寬仁親王の発言が元凶だったとする小林の論法は明らかに無理があります。

小林による三笠宮家バッシングとは、彼がゴー宣作者として行い続けてきたいつもの言論もどきの手口がそのまま皇族バッシングとなったものと言えます。

なぜなら小林は、寬仁親王を男系派の逆賊扱いして悪玉化して叩くことによって、自分自身を尊皇の愛国者に仕立てるといういつもながらの反権力パフォーマンスをやっているからです。

「皇統を維持するためには愛子天皇の実現しかない」という決めつけと、旧宮家の養子候補者の結婚相手となるであろう内親王がいる三笠宮家に対する敵意が合わさった結果、小林は寬仁親王を悪玉化した陰謀論を作り上げるまでに至ったようです。

小林が時浦に書かせた最新号のライジングでは、寬仁親王の過去の素行の問題をやり玉に挙げながら相変わらず三笠宮家バッシングを続けています。

ライジングで小林(或いは時浦)は「わしはスキャンダリズムで皇族を叩くことには反対である」と言い訳していますが、実際に書かれた記事はスキャンダリズムで特定の皇族を叩く内容となっているのですから有言不実行もいいところです。

Vol.584「寬仁(ともひと)親王の人格に問題はないか?」
https://note.com/yoshirin_k/n/na0f0c773fc40
※「ゴーマニズム宣言」…今回も念のため最初に書いておくが、わしはスキャンダリズムで皇族を叩くことには反対である。皇太子妃時代の雅子さまを適応障害に追い込んだり、眞子さまを国外追放状態にしてしまったメディアによるバッシングは、今でも許せない。だが、事実は事実として、明らかにしておかなければならないこともある。皇統の男系固執を強く主張し、今日の「愛子天皇排除法」の源流を作ったのが、「ヒゲの殿下」こと三笠宮家の寬仁(ともひと)親王(1946-2012)だったことは、前回詳述した。では、その寬仁親王とはどういう人物だったのか?今回は、これまであえて書かなかったことも洗いざらい書くことにしよう。これを知ってもなお「天皇や皇族の人格は問わない」「血だけが重要だ」と言えるだろうか?

三笠宮家バッシングに手を染めた小林や時浦は、「三笠宮家=悪」「寬仁親王=悪」という結論を補強するためならば、皇族叩きの話題に飛びついて人格攻撃を行う有様となっています。

小林(或いは時浦)が寬仁親王バッシングをしているのは、天皇になるべき皇族は人格者であるべきだという論を唱えることで、血統による皇位継承を否定することも狙いとしてあるのでしょう。

しかし、過去の歴代天皇には人格に問題がある人間がいたことも事実ですし、血統による皇位継承を完全に否定してしまったならば天皇制や皇室のあり方自体の否定へとつながる可能性もあります。

そもそも愛子さまという「直系」への皇位継承にこだわることは明らかに血統主義の最たるものですが、小林や時浦はなぜこのことに気付かないのでしょうか。

天皇や皇族の人格について問われるべきだという小林や時浦の論法は、下手をすれば三笠宮家以外のあらゆる皇族がバッシングの対象となってしまう恐れもあります。例えば、雅子さまに対してバッシングをしている人たちがやっていることは、皇族に対する人格攻撃の典型と言えます。

雅子さまバッシングをしている人たちも、三笠宮家バッシングをしている小林や時浦も、自分がやっていることは尊皇の情や正義感に基づいた「公」のための行いなのだと脳内で正当化できているからたちが悪いのです。

自分がやっていることを「正義のため」「公のため」と勘違いした純粋まっすぐ君の暴走がたちの悪いものであることは、歴史上の様々な悲劇的な事件だけでなく、小林や時浦の行動によっても証明済みとなっています。

そして救いようがないことに、ゴー宣道場で活動する狂信的なシンパたちもまた、小林の犬笛戦術に反応して三笠宮家を逆賊と決めつけてこれでもかとバッシングを行っています。

小林シンパたちは普段は個人崇拝に近いほどの尊皇の気持ちを表明していたくせに、三笠宮家バッシングに手を染めたことによって皇室への敬愛をすっかりかなぐり捨ててしまったようです。

ライジングの記事のコメント欄でも、「愛子天皇への道」の掲示板でも、ゴー宣シンパたちは三笠宮家に悪罵をぶつけています。

【最新】ゴー宣道場掲示板7/22~
https://aiko-sama.com/archives/75078

ゴー宣シンパたちは「権威」を盲信して思考停止した人たちであるため、皇室という「権威」よりも小林という「権威」の方が尊いと思い込んでいるだけの権威主義者に過ぎません。

今のところはまずあり得ないでしょうけど、もしも小林が天皇皇后両陛下や愛子さまへのバッシングを開始したならば、ゴー宣シンパたちも師匠の言葉や行動を見習うであろうことは目に見えています。

特定の対象を「敵」に仕立てて攻撃する小林の言説を鵜呑みにしているゴー宣シンパたちは、自分が「思想」として信じているものの中身がいかにお粗末であるかに気付くことができていません。

自分が気に食わないものを「敵」として叩いて憂さ晴らしさえできればそれでいいという小林一派の振る舞いは、言論や思想とは程遠い知的退廃の極みに他なりません。

2026年08月18日 20:28

https://washiblogact3.seesaa.net/article/521259720.html

 

大林わるのりさんからのコメント

今上天皇だって、問題は誰と血が繋がっているかではない。
https://yoshinori-kobayashi.com/blog/49398
【大阪もみじさん】
大変失礼な言い方ですが、今上天皇だって本当に神武天皇の血を受け継いでるかわからない。あんた誰の子孫?かもしれません。問題は誰と血が繋がっているかではない、平成の天皇、昭和天皇、その背中を見て育って、リスペクトして今、国民と共に歩んでいく覚悟を持っておられること。

現在のゴー宣シンパたちの発言の内容は、昔に比べると知的退廃が進んでいるかのように見えてしまいます。例えば公論サポーターの「大阪もみじ」は、今上天皇のことを「問題は誰と血が繋がっているかではない」と言っています。

天皇に即位する条件については、誰と血が繋がっているかを問題とするべきではないと言うのならば、それこそ外部から一般人を養子にして天皇にすれば皇統は持続できるという理屈も成り立ってしまいます。

「大阪もみじ」の主張は皇統や皇室のあり方に対する意味の否定につながりかねない内容ですが、果たしてこの人は自分が言っていることの内容を理解できているかどうかは怪しいでしょう。

なぜなら「大阪もみじ」は、今上天皇については「平成の天皇、昭和天皇、その背中を見て育って、リスペクトして今、国民と共に歩んでいく覚悟を持っておられる」とも言っているからです。

今上天皇は父親や祖父の背中を見て育っているから尊いという主張は、世襲を肯定する理屈として読み取れますし、この主張こそがまさしく小林界隈が批判している血統主義の典型に当てはまっているように見えます。

「大阪もみじ」もそうですが、小林シンパが言っていることの内容は実に非論理的で粗雑なものとなっています。

学歴も、性別も、もちろん血統なんかも、なーんも関係ありません!天皇皇后両陛下や愛子さまに神々しさを感じるか、有難さを感じるか、まずその感性さえあればいいのです。
ネトウヨには、まずその感性がありません。感性がなくて、知性も理性も品性もないのだから、どうにもなりません。

時浦が言っている主張は、非論理的であるだけでなく正気を疑う内容と化しています。何と時浦は、我が国の天皇に対しては、学歴も性別も血統も一切関係がなく「神々しさを感じるか、有難さを感じるか、まずその感性さえあればいい」と言っているようです。

皇族の性別は関係なく天皇の即位を認めろという主張は、ゴー宣界隈が唱えてきた女性・女系天皇の容認という主張をそのまま繰り返しているだけに過ぎません。

ただし血統は関係なしで天皇の即位を認めろという主張は、それこそ皇族以外の一般人が天皇になることも認められるべきだという主張につながり、皇統のあり方の否定につながる危険性があります。

小林界隈が血統にこだわらずに皇統を維持したいのならば、愛子さまという「直系」への皇位継承にかたくなにこだわることはもうやめるべきでしょう。

しかしながら小林だけではなく時浦などのゴー宣シンパたちは、血統主義の全否定は、それこそ愛子天皇の実現にこだわる直系カルト思想の全否定にもつながることを全く理解できていません。

また、時浦が「天皇皇后両陛下や愛子さまに神々しさを感じるか、有難さを感じるか、まずその感性さえあればいい」と言っていることは、あらゆる意味で突っ込みどころ満載の理屈となっています。

天皇に対して「神々しさを感じるか、有難さを感じるか、まずその感性さえあればいい」と言うのならば、天皇になる皇族は人格や能力が優れている必要があるという理屈は当然ながら否定されてしまいます。

しかし、小林界隈は愛子さまのことを人格面や能力面で高く評価し、天皇になる皇族は人格や能力が優れていることが重要であるかのように言っていたはずです。それだけではなく小林界隈が三笠宮家に対してバッシングしている内容とは、明らかに特定の皇族への人格攻撃に他なりません。

皮肉なことに時浦がもっともらしく言っている意見は、小林界隈がこれまでさんざん言っていた屁理屈の否定につながっているようです。

さらに、時浦が天皇に対して「神々しさを感じるか、有難さを感じるか、まずその感性さえあればいい」と言っているのは、まるで天皇への手放しでの神格化や盲目的な個人崇拝を肯定しているかのような意味としても読み取れてしまいます。

国家の最高権威が血統で継承されることが表向きは否定されているものの、実際には世襲制の意義が強調されていて、しかも神格化や個人崇拝が強要されている国といえば、あの北朝鮮がまさしくそうです。

もしも小林界隈が望んでいたような形で愛子天皇が実現したならば、間違いなく我が国は北朝鮮のような悲惨なディストピア社会となってしまうでしょう。もしかすると小林や時浦は北朝鮮を理想の国としているのでしょうか。

愛子天皇の実現で天皇を神格化して個人崇拝を強要させ、日本を近代的な民主主義国家とは程遠い神権政治の独裁国家に変えることこそが、小林一派の理想なのかもしれません。

時浦が「天皇皇后両陛下や愛子さまに神々しさを感じるか、有難さを感じるか、まずその感性さえあればいい」と言っていることを見ると、やはり小林界隈が望んでいるような形で愛子天皇を実現させるのは危険であると見なさざるを得ません。

2026年08月20日 16:31

https://washiblogact3.seesaa.net/article/505012454.html

小林よしのりの「エゴの砦」

大林わるのりさんからのコメント

「紙の砦」が面白かった
https://yoshinori-kobayashi.com/blog/49257
昨日、NHKで、手塚治虫を主人公にした反戦ドラマを見た。自叙伝「紙の砦」を下敷きにしたドラマらしい。

虫プロが倒産して、作品の持ち込みをする場面から始まるという大胆な設定だが、事実はその後に「ブラックジャック」や「火の鳥」のヒットを出す手塚治虫の凄さが描かれておらず、漫画家のわしの目から見れば、不満だが、反戦平和に特化した筋立てであっても、手塚のプロ意識や、信念が見える良い番組だった。

わし個人としても、漫画文化にとって、最も不遇な時代に、漫画への愛を貫いた手塚の信念に大いに刺激を受けた。

わしはやはり自信を持たねばならない。戦時中よりは自由のある今の境遇に感謝して、イデオロギーより、自分の感性を貫く勇気を奮い起こさねばならない。今に見ていろ!である。いつか今の信条を語るか、描く日が来るだろう。「紙の砦」こそが、自分の個を守り抜く砦であることを再認識させられた。

そもそも小林は漫画を愛している人間ではありませんし、手塚治虫に対して敬意を持っているわけでもありません。

小林がNHKのドラマ「手塚治虫の戦争」の感想文を書いた魂胆とは、手塚治虫という「権威」に自らをなぞらえて英雄気取りをすることが狙いであるかのように見えます。いつものことながら、小林は権威主義者の俗物としての癖が表われたに過ぎません。

もしかすると小林は、劇画ブームと虫プロの倒産という漫画家人生の危機から立ち直ったあの手塚治虫と同じく、漫画家として八方塞がりとなった今の自分もいつか必ず復活できるはずだと信じ込みたいのかもしれません。

だからこそ、小林は「今に見ていろ!」という攻撃的な言葉をブログであえて使った可能性があるのでしょう。

しかしながら、小林が自らを手塚治虫になぞらえながら偉く見せようとしていることは、実に厚かましい振る舞いで笑止千万としか言いようがありません。

例えば、低迷期のころの手塚治虫は劇画ブームに批判的でありつつも自らの作風に取り入れようとしていましたが、小林は最近の漫画のトレンドからろくに学ぼうとせず創作者としての成長が止まって等しい人間となっています。

また、小林がNHKのドラマ「手塚治虫の戦争」を「反戦平和に特化した筋立て」と言いつつも好意的に評価していることは、右傾化して以降のゴー宣の言説を熱心に信じていた時期がある元ファンにとっては違和感を覚えるでしょう。

なぜなら右傾化して以降の小林は、反戦平和主義や戦後民主主義や生命至上主義に対して批判的となり、手塚イズムとは相容れない思想を持つようになったからです。

例えば小林は、8月の日本国内のテレビ局が反戦平和をテーマにした番組ばかり流すことを揶揄していた人間でもありました。

そんな小林は、ドラマ「手塚治虫の戦争」を「反戦平和に特化した筋立て」と断りを入れつつも好意的に評価していますが、過去の自らの思想や歴史観とはどう整合性をつけるつもりなのでしょうか。

小林は戦時中の日本を正当化する主張や歴史観を広めていたくせに、今ごろになって「戦時中よりは自由のある今の境遇に感謝して」と言い出すとは、ある意味で無責任な変節と見られても仕方がありません。

私はゴー宣の元ファンとして、「小林先生、あなたがかつて主張していたことは一体何だったんだ」と言いたくなります。

さらに、小林が「イデオロギーより、自分の感性を貫く勇気を奮い起こさねばならない」と抜け抜けと言っていることに対しては、「あなたがそれを言うな」と言い返したくなります。

なぜならばゴー宣の作者としての小林は、運動団体の広告塔となってイデオロギーに基づいた言説を唱えることばかり繰り返してきた人間だからです。

部落解放同盟、薬害エイズ訴訟、つくる会、大東亜聖戦大碑、ゴー宣道場など何かしらの運動に関わるたびに熱心な宣伝マンと化していた時点で、小林が「イデオロギーより、自分の感性を貫く勇気」と言ったところで説得力はゼロです。

何よりも現在の小林が唱えている愛子天皇容認論こそが、イデオロギーに基づいた言説の最たるものとなっています。

AKB48の広告塔だったころの小林もまた、見方を変えたならば(AKBという名の)一種の運動団体の広告塔となって、アイドルグループのイデオロギーに基づいた言説を唱えていただけであったと言えるでしょう。

ちなみにAKB48のスポンサーだった京楽産業といえば、小林の代表作『おぼっちゃまくん』をパチンコ化した会社でもあります。小林がAKB48を熱心に褒めていたのは、『おぼっちゃまくん』をパチンコ化してくれた京楽産業の機嫌を取るためだったという可能性もあるでしょう。

つまり言論人としての小林は、自分が頼っているスポンサーの代弁者であることを繰り返しながら飯を食ってきた人間に過ぎません。

例えば、つくる会に参加していたころの小林は、宗教右翼勢力を支持母体にしていた人間です。『戦争論』のベストセラー化は一般人たちが購入したおかげだけではなく、(西尾幹二の『国民の歴史』と同じく)宗教勢力によるまとめ買いのおかげで売れた可能性があると見るべきでしょう。

それどころか、ゴー宣道場を結成して以降の小林は生長の家を支持母体にしており、女系天皇支持、脱原発、反自民、政治思想のリベラル化など言説の特徴がなぜか同教団の方針と奇妙に一致しています。

小林が「イデオロギーより、自分の感性を貫く勇気」を本気で奮い起こすならば、自分のカルト疑惑に対して明確な形で説明責任を果たすべきです。

スポンサーの御用文化人であり続けてきた小林は、自分の個を守り通すことはできませんでしたが、エゴイズムを「公のため」と正当化して歪んだプライドを守り通すことに関しては誰よりも徹底していました。

やはり小林にとっては「エゴの砦」こそが、自らの歪んだプライドを守り抜くための砦であったのでしょう。
2026年08月14日 07:06

https://washiblogact3.seesaa.net/article/519613138.html

 

大林わるのりさんからのコメント

「自分とは何者か?」というアイデンティティへの問い
https://yoshinori-kobayashi.com/blog/49270

8月14日の小林ブログのメッセージをまとめるならば、「深い思想を持った冒険スペクタクルの作品を生み出せるわしは、他の創作者と違ってこんなに偉い存在なのだ」と威張っているだけの空っぽな内容です。

しかし悲しいことに小林が威張れば威張るほど、自分自身の薄っぺらさを露呈する羽目となっています。

例えば小林は建国論シリーズ(『神功皇后論』や『神武天皇論』)のことを、「神話と史実の境い目が分からない時代の冒険スペクタクル」と言っています。

しかしながら、小林が建国論シリーズを物語(フィクション)として強調していることに対しては、「あなたが歴史学者の著書を参考文献にして、実証を重んじているかのように強調していたことは一体何だったのか」と突っ込みたくなります。

やはり小林は、物語としての歴史(歴史を題材にした創作物)と、学問としての歴史(実証を重んじる歴史学)の区別が曖昧なまま、建国論シリーズをスタッフたちに制作させていたのでしょう。

ちなみに普段の小林は男系天皇派のことを、万世一系という物語を信じていて実証的な歴史研究を無視していると決めつけて批判しています。小林が欠史八代説を唱えながら、男系天皇派を叩いていることはまさにそれです。

しかし小林自身は、建国論シリーズを利用しながら、架空の物語を史実であるかのように読者に信じ込ませて騙そうとしている卑怯な人間です。小林が言っていることややっていることは、「お前がそれを言うな」と批判されても仕方がないものです。

現在のゴー宣道場に残っている小林シンパたちは自分の頭でものを考えることができないため、『神功皇后論』や『神武天皇論』を史実と信じ込んでいる残念な人たちも当然ながらいるはずでしょう。

また、小林が自らのことを実際以上に偉大で優れた存在として見せたがるのは、自分自身に対してコンプレックスを持っていることの裏返しに他なりません。彼のこの振る舞いは、まさしく「虚勢ズム」と呼んでも良いでしょう。

しかも小林の虚勢ズムは権威主義ともセットになっています。例えば、小林が建国論シリーズの制作をホメロスの叙事詩『オデュッセイア』になぞらえているのは、典型的なまでの権威主義の裏返しです。

要するに小林は、「わしもホメロスに匹敵する歴史的な存在として認められて、人々から権威として崇められたい」と望んでいるだけの俗物でしかありません。

小林の虚勢ズムと権威主義がセットになっているのは、彼が日本を愛するナショナリストを演じていながら、実際には西洋に対して劣等感を持っていることを隠し切れていない様子からも分かります。

このブログで小林は、「西洋人の方が日本人より、思考のスケールが大きい」と言って、出羽守の思考に基づいて日本人批判をしています。

しかし小林が「日本人は私小説的に私人性(プライベートマインド)に篭りがち」と言ったところで、「そもそもあなたのゴー宣はエッセイ漫画としての意味合いもあるのに、それを言うのは自分がやってきたことの否定になるではないか」と突っ込まれるだけでしょう。

相変わらず、小林は自分自身を客観視できていません。

おそらく小林は「わしの『神功皇后論』や『神武天皇論』に見向きもしない日本の一般人たちは、クリストファー・ノーラン監督の映画『オデュッセイア』の良さを分かっている海外の人たちと違って思考のスケールが小さい」とでも言いたいのでしょう。

小林が心の中で思っていることとは、以下のような内容なのかもしれません。

「日本は神話や歴史が素晴らしい国だから、日本人は偉い。だから日本人であるわしも当然ながら、何もしていなくても偉い存在だ。でも、日本人は西洋人と違って思考のスケールが小さい。わしはそんな大多数の愚かな日本人と違って、大きなスケールでものを考えることができる」

結局、小林が自分自身をナショナリストとして演じていることでさえも、「日本は素晴らしい=日本人は素晴らしい=だから日本人であるわしも偉い」という思い込みをもとにして威張ることが目的に過ぎません。

自分自身に対して劣等感を持っているがために、「わしは日本人だ」という誇りにすがりつく小林の姿は、彼が何かと批判しているネトウヨの姿と重なって見えます。普段の小林がネトウヨを批判するために言っている内容とは、自分自身の欠点を投影していただけのものだったのでしょう。

しかし一方で、小林が日本や日本人を愛するナショナリストを演じているのは、彼が西洋に対してコンプレックスを持っていることの裏返しでもあります。

小林が皇室や神話を利用して「日本は偉大な国だ」と無理やり思い込もうとしているのは、「もしかすると日本や日本人は、本当は西洋よりも文化的に劣っているのではないか」という劣等感や不安ともセットになっているのかもしれません。

そうであるならば、小林が自分をナショナリストとして見せつけて「日本は偉大だ」と無理やり思い込もうとしていることでさえも、実際には西洋文明に対するコンプレックスを隠すための虚勢ズムに過ぎなかったのでしょう。

劣等感まみれで承認欲求に飢えていた小林は、等身大の自分を直視しようとせず、虚勢ズムによって偽りのアイデンティティを確立する人生を送ることを選びました。

そして、自分探しを続けていたゴー宣信者たちもまた、師匠となった小林の真似をして虚勢ズムを身につけたことによって、劣等感まみれで弱い自分を実際以上に強く見せようとする人生を送ることにつながりました。

ゴー宣の作者としての小林は、自分探しを続けている人たちを客層にしてきたこともあって、「「自分とは何者か?」というアイデンティティへの問いは、常に人々の人生に内在しているはずだ」と偉そうに言っています。

なるほど。小林商法の正体とは、自分自身に劣等感を持っている人たちを相手に、「お前は日本という素晴らしい国に生まれた人間だ」「日本人は偉い民族だから、日本人であるお前も偉い存在だ」と思い込ませて本を売ることだったのでしょう。

今思えば、小林が『戦争論』の発表によって成功した商売のやり方がまさにそうでした。

小林の正体とは、自分探しを続ける弱い人たちをカモにして商売をすることを目論んでいる似非教祖的な売文屋である同時に、彼自身が自分探しをやめられずに劣等感に苦しんでいる哀れな人間でもあります。
2026年08月15日 16:56

https://washiblogact3.seesaa.net/article/521346828.html

 

大林わるのりさんからのコメント

『角栄生きる』選挙戦は大波乱!「小林よしのり漫画ブック」本日配信予定!
https://yoshinori-kobayashi.com/blog/49281
本日配信予定の「小林よしのり漫画ブック」Vol.27は『角栄生きる』第5話「支持率伯仲す」を掲載!

8月14日の夕方にアップされた時浦ブログでは、漫画ブックは「本日配信予定」であるとタイトルでも記事の文中でも予告されていました。

「小林よしのり漫画ブック」の配信は明日になります
https://yoshinori-kobayashi.com/blog/49288
「小林よしのり漫画ブック」は、「角栄生きる」の原稿の汚れや痛みが激しくて、岸端編集長が、一心不乱に修正していますが、今日中に配信することが不可能なようです。今日は仕事場に泊まり込みで、仕事するらしいので、配信は明日(15日、土曜日)になります。明日の配信をお待ちください。

しかし、同日(8月14日)の夜にアップされた小林ブログでは、漫画ブックの配信は翌日(8月15日)になると書かれており、またしても配信の期日が守られることはありませんでした。

現に漫画ブックの最新号は、予定より1日遅れた本日(8月15日)になってやっと配信されたようです。https://note.com/yoshirin_k/n/nb57ab01f84b8?magazine_key=madfc71dde6bf&from=membership-magazine

小林はプロの創作者でありながら締め切りを守ろうとせず、漫画ブックの読者たちとの契約を疎かにしています。シンパたちや取り巻きが小林の怠惰な仕事の姿勢を怒らなかったことは、物書きとしての小林よしのりを甘やかして堕落を促進させることにつながったと言えます。

漫画ブックの配信の期日が遅れたことに対して小林は、岸井編集長が泊まり込みながら原稿を修正していると言って弁解をしているようです。小林が岸端のことを「今日は仕事場に泊まり込みで、仕事する」と言っているのは、見方によっては寝てない自慢としての意味を読み取れます。

しかしながら小林は7月26日のブログでは、高市首相の「0時間~3時間睡眠」発言のことを寝てない自慢扱いして、「サボり魔の言い訳」で「プロ意識がない」と言って批判をしていました。

小林イエスマンである時浦も8月2日のブログ記事では、高市首相の「0時間~3時間睡眠」発言を寝てない自慢扱いして叩いています。

高市早苗にはプロ意識がない
https://yoshinori-kobayashi.com/blog/49007

高市早苗が首相ということが、日本の存立危機事態! 倒せ男系革命!!
https://yoshinori-kobayashi.com/blog/49101

小林が寝てない自慢を利用しながら岸端編集長をかばっていることに対しては、「サボり魔の言い訳」で「プロ意識がない」の謗りを免れません。

漫画ブックの配信が遅れたことに対して、岸端編集長を寝てない自慢でかばう小林の言い訳に対しては、時浦ブログの言葉を借りるならば、「睡眠不足自慢をする人は「タイムマネジメントができず、仕事が遅いトロい奴」」とでも言うべきかもしれませんし、「寝てないという割には「できている仕事が少なすぎる」」とでも言うべきかもしれません。

高市首相の「0時間~3時間睡眠」発言を叩いていた小林と時浦は、自分たちが言っていることややっていることがブーメランとして返ってきていることになぜ気付かないのでしょうか。

2026年08月15日 22:03

https://washiblogact3.seesaa.net/article/519442984.html